2020.07.31 00:58創立者との最後の面会――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(6) 八年ほど前に設立された聖パウロ修道会のローマ修道院は、アルバの母院よりもずっと小さな建物だったが、それでも五十人以上の若者を収容できるかなり広い建物で、「城外の聖パウロ大聖堂」が、近くの聖ベネディクト修道会の所有地に建っていた。そこは、「サン・パウロのブドウ畑」と昔から呼ばれていた。 このローマ修道院の設立者で、院長でもあったティモテオ...
2020.07.27 11:47ベツレヘムの清貧――福者ジャッカルド神父の生涯(32) 1927年10月には、聖パウロ会の小グループが、この「ぶどう畑」の「農家」に引っ越してきた。その際に、アルベリオーネ神父はこう書き送っている。「優れたぶどう栽培者である聖パウロの指導に従って、白と黒のぶどうを栽培しなさい」と。これは比喩的表現であり、すぐれた宣教者聖パウロにならえば、優れた宣教活動ができるだろうという意味である。 だが、...
2020.07.27 01:00『パブリック 図書館の奇跡』:ブラザーが選ぶ! おすすめ映画 「公共図書館の3階にある1フロアーが突然占拠される!!」という事件が、アメリアオハイオ州シンシナティで起こった。例年にない大寒波の中、多くの路上生活者が凍死するニュースが流れる。この映画は、寒波の中苦境に立たされた路上生活者と一人の図書館員が起こした、あっと驚かされる奇跡のヒューマンドラマである。
2020.07.22 03:20『モンテッソーリ教育と子どもの幸せ』 子どもは自分で個性的な人間を建設する能カを与えられている。大人が先回りする保育ではなく、子どもの内部にある自らのエネルギーによるその発達を見守り、優しく援助する。このモンテッソーリ教育が、今、注目されている。著者はその教育現場を訪問し、その実情を報告する。高齢者の介護にもモンテッソーリケアが応用される。著者略歴江島正子(えじままさこ)1...
2020.07.17 00:57アルバの共同体への別れの挨拶――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(5) アルバの母院では、毎日友人の神父やシスターたちと会っていたが、みんなの口から出るのは励ましとお祝いの言葉であった。彼らは私たちに好意を持っていた。私たちの幸運をうらやむ人、もうこれが最後のお別れでもあるかのようにじっと見つめる人……。 みんなが掛けてくれる言葉の多くは次のようなものであった。「幸運ですね! 『神学の先生』があなた方を派遣...
2020.07.15 11:46聖パウロのぶどう畑――福者ジャッカルド神父の生涯(31) ローマのオスティエンス通りの修道院は、志願者の増加により手狭になり、落ち着いて祈りや黙想もできないし、使徒職も思うに任せないようになっていた。それでティモテオ神父は、自ら祈ると同時に、若者たにもこう祈らせた。「主よ、あなたは仰せになりました」。『あなたがたは雀より優れている』と。ですから、私たちにも住みかを与えてください」。それから、し...
2020.07.10 00:55爆弾炸裂――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(4) 毎日、エンリチ神父が看護してくれた。マッサージに注射、足はひざから下がしっかり包帯で固められていた。療養している間、私はベッドに横になって祈ったり、読書をしたり、また「協力者」のための新しい使徒職の計画を立てたりしていた。 友人たちが昼食後のレクリェーションに興じているとき、私はベッドから降りて、片足飛びで窓辺に行き、中庭の「パッラ・ア...
2020.07.08 08:33ローマに支部設立――福者ジャッカルド神父の生涯(30) アルベリオーネ神父は、すでに1920年、ローマに聖パウロ会の支部を開設しようと考えていた。聖パウロ会がローマにあるなら、イタリア国内だけにとどまらず、全世界にも知られるにちがいない。教皇のそばで、カトリックの普遍的な、世界規模の精神をじかに体験できるし、全世界に向けて広報機関による福音の拠点にもなる。聖パウロ会の保護者である聖パウロもそ...
2020.07.03 00:41グッツィ暴走――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(3) 新しいバイクはすばらしかったが、私のように運転が未熟で愚かなドライバーにとって、この新車は、いかんせん速や過ぎた。道路は今のようにまだ混雑していなかったので、スピードを出したいという誘惑は大きかった。 私は数カ月の間、特に事故も起こさずに運転していた。しかし一九三四年の十月、この「すばらしい奴」は突然言うことを聞かなくなり、坂道で私の信...
2020.07.01 08:32週刊新聞の編集長――福者ジャッカルド神父の生涯(29) しかし、そのことでティモテオ神父の仕事や責任分担が減ったわけではない。いや、むしろ、事業を発展させるために、今までの志願者教育の仕事に加えて、教区の週刊新聞『ガゼッタ・ダルバ(Gazzetta d'Alda)』の編集を引き受たのである。そして公認の「記者手帳」をもらい、プロの資格で取材できるようになった。 そのころ、ファシスト党の勢力が...