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ベツレヘムの清貧――福者ジャッカルド神父の生涯(32)

 1927年10月には、聖パウロ会の小グループが、この「ぶどう畑」の「農家」に引っ越してきた。その際に、アルベリオーネ神父はこう書き送っている。「優れたぶどう栽培者である聖パウロの指導に従って、白と黒のぶどうを栽培しなさい」と。これは比喩的表現であり、すぐれた宣教者聖パウロにならえば、優れた宣教活動ができるだろうという意味である。

 だが、敷地は大きくても住居は狭い。狭い部屋を食堂にし、ぎっしり詰め寄っていっしょに食事していた。しかも、ティモテオ神父は若者の寝室の一角を板で囲み、それを自分の寝室とした。その家具といえば、ベッド一台と古びた椅子一脚にすぎない。用具にしても使い古されたペン、短くなった鉛筆、紙切れなど……。記事さえも、使用済の封筒の裏側や紙切れの空白に書き込んでいた。そして、自分のための交通手段は、いちばん安いものを選んでいた。

 さて、ローマ修道院の周りには広い草原があるし、通りの名にグロッタとあるとおり、洞窟もいくつか見える。そこでのびのびと運動ができるし、近所への気遣いもなく、声高らかに歌ったり祈ったりできる。なお、小聖堂は家畜小屋を改造したものであった。このような状況では、印刷所の新設までは手が届かない。仕方なく、印刷機などは当分の間オスティエンセ通りの借家に置いたままにし、数ヵ月間は、雨の日も風の日も、2キロの泥道を歩いて印刷所まで一日二回も往復していた。

 それだけでも草分けたちは、このベトレヘムの貧しい生活によく耐えて勤勉に働き、懸命に勉強し、楽しく野原を駆け回り、ローマの諸教会や遺跡にもたびたび巡礼した。1927年当時、アルベリオーネ神父は、次の手紙をローマ修道院に送っている。「あなた方が常に神様だけを頼りにせざるを得ないことを知って喜こんでいます……。あなた方以上の特典者は、この世にだれもいません」と。

 前述のシュスター大修道院長も、あの見すぼらしい家で若者たちが楽しそうに暮らしているのを見て、感動のあまり、こうつぶやいたという。「ベトレヘム! ベトレヘム!」

 ちなみに、1929年の厳冬に、聖パウロ女子修道会の小グループが、この「ぶどう畑」にある古ぼけた干し草倉庫に引っ越してきて、そこに寝泊まりするようになった。この倉庫のドアはうまく閉まらないし、窓といえば「銃眼」のような小さいものであった。ここでも、聖パウロ家族に倣って、ベトレヘムの清貧生活が始まったのである。


  • 池田敏雄『マスコミの使徒 福者ジャッカルド神父』1993年
  • 現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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