2021.02.12 07:00二人の子ども――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(27) 幼稚園の話のついで、一人の男の子のエピソードを紹介したいと思う。それは実の母親に捨てられ、一人の会員が私たちの「子どもの巣」に連れてきた子どものことである。ある日の午後、道端で幼な子の激しい泣き声がしたので、一人の会員が驚いて立ち止まった。辺りを見回すと、家の玄関の前で六歳くらいの女の子が、火がついたように泣いている二~三歳の男の子を困...
2021.02.05 07:00幼稚園を開園――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(26) 労苦をいとわないパウロ神父が社会に向けて計画し実行した最初の活動は、当時、日本にとても多くいた子どもたちのための計画であった。パウロ神父はすでにイタリアで、小さな子どもたちの指導について豊富な経験があった。彼は「ジョルナリーノ」(子ども新聞)の編集長として、子ども向けのたくさんの記事を書いていた。それはおもしろくて、しかもとても分かりや...
2021.01.29 01:00日曜日――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(25) 王子の二階建ての集会所が広いと感じていたのは、最初のわずか数週間だけであった。その家は、二階がテラスのある大きな部屋だった。ここを主任司祭と助任司祭のための書斎として私たちは自分たちの荷物を置き、部屋の残りの部分はこれから来る会員たちのために空けておいた。 一階には、二階の部屋の真下に小聖堂があり、そこに祭壇と祭服を収納する戸棚、ミサ用...
2021.01.22 07:00小教区教会と事業――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(24) 東京の王子区における最初の新しい伝道所は、省線の駅付近の地名から一般に「下十条教会」と呼ばれていた。教会の創立は、「日本カトリック新聞」(現・カトリック新聞)に掲載された。この知らせはたちまち広まり、最初の日曜日から大勢の人(カトリック信者も信者でない人も、ただ好奇心だけの人たちも)が教会に押しかけた。一九三六年のことであった。当然のこ...
2021.01.15 05:30新しい宣教師たち――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(23) 一九三六年から第二次世界大戦の開戦(一九四一年)まで、王子における聖パウロ修道会の生活は積極的で活発なものであった。実際、この地における役務としての使徒職は感動にあふれたもので、私たちに忘れることのできない満足と消えることのない喜びを与えてくれた。その後、私たち二人を応援するため、イタリアから四人の会員が相次いで来日した。彼らは最初、小...
2020.12.18 01:23王子区(現・北区)にて――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(22)監修者注:王子教会時代から信徒たちはパウロ・マルチェリーノ神父とロレンツォ・ベルテロ神父を、分かりやすくそれぞれパウロ神父様、ロレンツォ神父様と呼んでいた。以下の文中ではできるだけこの呼び方を使うことにしたい。
2020.12.11 01:22日蓮聖人、大森区の守護聖人――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(21) 私たちは町の住民とその習慣についての知識を深めるため、地域の特色ある宗教の祭りに参加したいと考えた。そしてそれは、人口の多いこの大森地区の守護者である日蓮聖人にささげられている、とても美しい寺で行われている祭りであった。日蓮は生前、その英雄的な慈愛によって広く人々に知られていて、日本の各地であがめられている人物であった。 ある秋のことで...
2020.12.04 01:21桑島カツさんの家族たち――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(20) 「はまさん」の家族は、まさしく私たちと同じ「三丁目」、大森区の第三番目の区域に住んでいた。その簡素な家は、私たちの家から二百メートルほどの所にあった。翌日、桑島さんは本当に訪ねて来た。私たちは彼女を家の中に迎えた。彼女は私たちには理解できない、しかし明らかに礼儀正しさを表している言葉を述べながら、深々とお辞儀をした。私たちは彼女に辞書を...
2020.11.27 01:20私たちの「はまさん」――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(19) 私たちは幸いに(いつもピアチェンツァ神父のおかげではあったが)、多少お歳は召してはいたが、善良なカトリック信徒の女性と知り合った。その人は大森区における私たちの最初の「同志」にして友人、援助者、そして私たちの料理人となった「はまさん」である。 一九三五年一月、私たちは三河島のサレジオ修道会を出て、二人だけで大森区で生活を始めた。その日、...
2020.11.20 01:16摂理の助け――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(18) 経済的に見て、私たちの状態は実に悲惨なものだった。全くお金がなく、月額三十円(イタリアの七十リラに相当、現在の価値にすると七万リラにはなるであろう)の家賃契約を結んでいた。語学の教師にも月三十円で約束していた。私たちにとって月末に六十円を支払うということは、夜も眠れないほどの大問題であった。その他、パンやその他の私たちの口に合う食物を、...
2020.11.13 01:14貸家――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(17) 一九三四年のクリスマスと一九三五年の元旦は、三河島で熱心な信徒のみなさんと過ごした、すばらしくも感動的な二日間であった。しかし「主の公現」が過ぎてから、私たちに思わぬ災難が降りかかった。それは、私よりも勇気と決断力のあるマルチェリーノ神父に対しても深い傷痕を残した。 ローマからは、アルベリオーネ神父の私たち二人に宛てた手紙以外は、何の連...
2020.11.06 01:13東京・大森、聖パウロ修道会の「ベトレヘム」――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(16) 三河島で私たちはピアチェンツァ神父の慈父的な保護の下、サレジオ修道会の皆さんが運営する学校や司牧する教会で醸し出している、心からの陽気な雰囲気の中で約三カ月を過ごし、安心して日本語の勉強に励んだ。間もなく私たちは、百余りの主要な漢字とその意味を覚えた。しかし、どんなきれいなバラにもとげがある。私たちの前には、教会当局からの「十字架」と無...