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へりくだるという種 年間第29主日(マルコ10・35〜45)

 私たちは、時々「こんなに祈っているのに、神様は私の願いを聞き入れてくれない」と思うことがあるのではないでしょうか。そのような時、「今、祈っている私の気持ちはどこにあるのか」と考えてみてはいかがでしょうか。神様は、私たちにいちばん善いと思われる方法で聞き入れて下さるのだと思います。

 きょうのみことばは、ヤコブとヨハネがイエス様に、イエス様の所に近づいて「先生、お願いがあります。ぜひとも、それをかなえてください」と言ってお願いするところから始まっています。彼らの願いは、「ぜひとも」という言葉がありますように、「はじめからイエス様が聞き入れてくださる」ということが前提でイエス様の所に近づいて行ったようです。この「ぜひとも」という中には、神であるイエス様を、人のレベルに引き下ろして願っている【祈り】となり、自分が中心となってしまう危険性があるのではないでしょうか。

 彼らの願いは「あなたが栄光をお受けになるとき、どうかわたしたちの一人をあなたの右に、一人を左に座らせてください」というものでした。この「栄光」というのは、復活した時のことを言っているのですが、イエス様がメシアとしてこの世を治めるときに、自分たちが他の弟子たちよりも偉くなりたい、という意識があったようです。弟子たちは、不思議なことにイエス様が「受難の予告」をされた後は、「誰がいちばん偉いか」(マルコ9・34)ということが頭によぎっていたようです。まだまだ、弟子たちの中では【復活】の本当の意味が理解できていなかったようです。

 ヤコブとヨハネは、以前ペトロとともにイエス様の「変容」のお姿を体験した弟子でしたし、最初に弟子として選ばれた人だったこともあり、自分たちは他の弟子たちとは違う、と思っていたのかもしれません。イエス様は、そんな二人の弟子に「あなた方は自分が何を願っているのか分かっていない。あなた方は、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」と言われます。このことは、イエス様がこれから受けようとされる「受難」を弟子たちも同じように受け入れることができるかを確認されたのでした。イエス様は、【受難】を通らなければ【復活】の栄光に受けることができないということを伝えようとされたのではないでしょうか。

 彼らは「できます」と答えます。この言葉の中には、彼らの強い意志が含まれています。私たちは、聖書を読んでいますので、イエス様が十字架にかけられた時にほとんどの弟子たちが逃げてしまったことを知っています。このとは、私たちの人間的な「意志」の脆さを表しているのではないでしょうか。私たちは、洗礼の恵みをいただき、「からだの復活、永遠のいのちを信じますか」という問いに「信じます」と答えました。この信仰宣言は、私たちの言葉ですが人間の力だけで難しく、三位一体の神の力がなければできないものです。私たちは、このことに信頼してもう一度、洗礼の恵みの時に約束した『信仰宣言』を振り返ってみてもいいのかもしれません。

 イエス様は、彼らがご自分と同じように「杯を飲み、洗礼を受ける」ことを伝えた後、「わたしの右または左に座らせることは、わたしが決めることではない。それは定められた人々に与えられたものである」と答えられます。ここで「人々」というのは、おん父だけではなく【三位一体の神】と言ってもいいでしょうし、もしかしたら、マリア様も入っているのかも知れません。

 さて、他の弟子たちはヤコブとヨハネの願いを聞いて憤慨します。それは、他の10人もこの2人と同じことを考えていたのでしょう。弟子たちは、イエス様の側で生活をしていろいろな教えを聞いているのに、「誰がいちばん偉いか」とか、「誰がイエス様の左や右に座るか」とかを気にしているのです。そんな彼らに対してイエス様は、アガペの愛をもって呼び寄せられ、「……あなた方のうちで偉くなりたい者は、かえってみなに仕える者となり、また、あなた方のうちで第一の者になりたい者は、みなの僕となりなさい。」と言われます。

 このことは、まさにイエス様のお姿です。また、それを実行されている方は、【教皇】ではないでしょうか。教皇フランシスコは「連帯の具体的な表現は奉仕であり、それは他者の面倒を見る、実にさまざまな形態を取りうるものです。……もっとも弱い人から実際に向けられる視線の前で、自分の願望や期待、権力欲を脇におくことです。」と言われています『回勅 兄弟の皆さん』(115)。私たちは、この教皇様の言葉をゆっくり味わってみるのもいいのではないでしょうか。

 イエス様は、「人の子が来たのも、……また多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである」と言われます。パウロは「死に至るまで、十字架の死に至るまで、へりくだって従う者となられました」(フィリピ3・8)と伝えていますが、イエス様はご自分の命をお与えになられるほど、私たち一人ひとりを愛され、仕える者となられました。私たちは、洗礼の恵みを振り返るとともに、イエス様がへりくだられたように、私たちも周りの方に【奉仕】することができたらいいですね。


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