アガペの愛という種 年間第26主日(マルコ9・38〜43、45、47〜48)
私たちは、自分たちと違う人に対して不安を抱いたり攻撃をしたりする傾きがあるのではないでしょうか。これからの公開される、『梅切らぬバカ』という自閉症の子(49歳)とその母親の映画を観ました。周りの人は、自閉症の子が奇声をあげ、変わった行動をすることへの恐れのため、敬遠し奇異な目で見ています。しかし、実際にその子を知り受け入れることで分かり合え、安心して接することができるようになる、という映画でした。私たちは、まず相手を知り、受け入れることで【アガペの愛】が生まれるのではないかと思います。
きょうのみことばは、「イエス様に反対しない人」と「誘惑についての警告」を伝えている場面です。ヨハネはイエス様に「先生、お名前を使って悪霊を追い出している人を見ました。その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせようとしました」と伝えます。ヨハネは、弟子たちを代表して自分たちが良いことをしたと意気揚々とイエス様に報告します。きっと、弟子たちはイエス様から「良くやった」と褒められると思ったのでしょう。
しかし、イエス様は「やめさせてはならない。わたしの名によって奇跡を行いながら、すぐにわたしをののしる者はいない」と逆に注意されます。みことばの中で【名前】というのは、私たちが使う「○○さん」という「名前」ではなく【その人の人格の全て】を指すようです。ですから、イエス様は、ご自分の全てをその悪霊を追い出している人を使って奇跡を行われている、と言っても過言では無いでしょう。これは、今の私たちにも当てはまるのではないでしょうか。イエス様は、私たちが福音宣教をする時に私たちを通してご自分が働かれておられるのです。
一方、弟子たちは「自分たちだけが、イエス様の弟子であり勝手に先生の名前を使うなんてけしからん」と思ってい、自分たちのことを特別なグループだと思っていたのではないでしょうか。イエス様は、そのような弟子たちの狭い考え、愛がない行動に対して「やめさせてはならない」と言われたのかもしれません。イエス様は、アガペの愛を持って弟子たちを諭します。
さらに、イエス様は、ご自分の名前を使って奇跡を行なった人のことを思われアガペの愛を持って「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である」と言われます。この人は、悪霊に憑かれた人を憐れに思い「イエス様の名前を使ったら癒されるかもしれない」と思って奇跡を行なったのです。それなのに、どうして自分が弟子たちに咎められなければいけないのか、と思ったのではないでしょうか。イエス様の言葉は、どのように彼の心の中に響いたことでしょう。みことばには、書かれてありませんが、彼は弟子たちと一緒にイエス様について行ったのかもしれません。
イエス様は、弟子たちに「……あなた方がメシアに従うものだからというので、あなた方に一杯の水を飲ませる人は、決してその報いを失うことはない」と言われます。イエス様は、前の節で言われた「反対しない者は……」という言葉に続いてこのように話されています。「水を飲ませる」という意味は、ただ単に弟子たちの行いを労う行為としてではないのかもしれません。もしかしたら、マルコが福音書を書いた時代のキリスト者は、ユダヤ教徒から見れば新興宗教の一派と思われていたのではないでしょうか。そのため、弟子たちに「水を飲ませる」ということは、「自分もあなた方の味方です。あなた方に賛同します。」という意思の表明だったのかもしれません。
さらにイエス様は、「わたしを信じるこの小さい者の一人をつまずかせる人は、その首にろばの碾き臼をはめられ、海に投げ入れられるほうがましである」と言われます。この「わたしを信じる小さい者」は、「幼子の一人を受け入れる」(マルコ9・37)にある【幼子】のように無力で弱い立場の人のことを指しているようです。また、パウロが「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」(ローマ14・1)と伝えるように、「信仰の弱い人」という、キリスト者になったばかりの人やこれからキリスト者になろうとしている人のことを指しているのかもしれません。【つまずき】とは、罪のことを指しているようで、キリスト者の言葉や行いによって、【小さい者】が失望や落胆して「おん父のもとから離れる」ことがないようにという警告ではないでしょうか。
イエス様は、具体的に私たちの「両手、両足、両目」がもとに罪への【誘惑】に傾いた時の対応として厳しい言葉で戒められます。私たちは、これらの【誘惑】に対してなかなか手放すことができません。それを手放すためには、かなりの【痛み】や強い【決心】が必要になってきます。イエス様は、それでも神の国に入るためには【誘惑】を手放しなさいと言われているのではないでしょうか。
イエス様は、私たちにご自分に倣う者としてどのような心構えが必要なのかを伝えておられます。私たちは、周りの人を受け入れると共に、自分の悪への【誘惑】を切り捨てながらイエス様と共にみことばを宣べ伝える人となることができたら良いですね。
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