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幼子を受け入れるという種 年間第25主日(マルコ9・30〜37)

 私たちはいくつかの欲求を持っています。この欲求は、やる気、活力を蓄える良い作用と、自己の満足や権力など悪い作用の二面の場合があるのではないでしょうか。最初は人のために自分を鼓舞しようとしますが、いつの間にか自分の居心地をさらに良くしようという傾きを持ってしまいます。いつも主のために【欲求】を使うことができるように祈り続けることができたらいいですね。

 きょうのみことばは、「受難の予告」と「第一の者となる」ことを伝える場面です。イエス様、ご自分の変容の姿を4人弟子たちに示された後タボル山を降り(マルコ9・2〜8)、他の弟子たちと共にガリラヤを通ってカファルナウムに【向かわれ】ます。その中でイエス様は、弟子たちだけに「人の子は人々の手に渡され、殺される。しかし、殺されて3日の後に復活する」と伝えます。イエス様は、前にフィリポ・カイサリアに【向かう途中】でも同じようにご自分の【受難】について弟子たちにはっきりと話されています(マルコ8・27〜33)。

 この2つの受難の予告に共通するものの一つとして、どこかに【向かう途中】ということが挙げられます。これは、イエス様が意図的に使われたのではないでしょうか。普通に考えるとご自分がおん父から遣わされた使命である、【受難と復活】を通して人々を贖うという大切なことをお話になられるのですから、どこか落ち着いた場所で話されてもいいものかと思うのです。では、なぜ落ち着かない【向かう途中】なのでしょうか。それは、イエス様の頭の中では【エルサレムへの道(受難への道)】を意識され、ご自分の【受難と復活】について語られたのかもしれません。

 イエス様と弟子たちは、カファルナウムに到着します。イエス様は主にカファルナウム付近で宣教されておられたので、そこは、ペトロの家かもしれません。イエス様は弟子たちに、「あなた方は道々、何を論じ合っていたのか」とお尋ねになられます。イエス様は、ご自分の【受難と復活】を弟子たちに伝えた後、歩きながら「エルサレムで起こること」を黙想されていたのかもしれません。その中で弟子たちの会話が耳に入ってきていたのでしょう。この時のイエス様のお気持ちは、どのようだったのでしょう。彼らの信仰の浅(あさはか)さに悲しみを覚えられたのかもしれませんし、もっと彼らに伝えなければならないこと(養成)があると思われたのかもしれません。

 一方、弟子たちはイエス様から2度に渡って【受難と復活】について聞かされ、2回目は「尋ねるのを恐れる」くらい緊張して聞いています。それで、弟子たちは、イエス様がいなくなった後、「イエス様に代わって自分たちのまとめ役として誰がいいのか」と言うことを気にしていたのかもしれません。または、ヤコブとヨハネが「あなたが栄光をお受けになるとき、どうかわたしたちの一人をあなたの右に、一人を左に座らせてください」(マルコ10・37)とありますように、イエス様が「メシア」として復活された時に「第一、第二」の座を考えていたのかもしれません。

 しかし、イエス様の問いに彼らは、黙ってしまいます。それは、イエス様の【受難と復活】を望んでいると同時に後ろめたさを感じたのかもしれません。弟子たちは、人々に教え、癒し、パンや魚で満腹にさるという奇跡を行われているイエス様のお姿を見ながら、イエス様がどのようなお方かを知っていました。弟子たちは、自分たちが論じ合っていた内容がイエス様に嫌われることだと気付いたのではないでしょうか。

 イエス様は、腰を下され弟子たちを呼び「第一の者になろうと望むものは、いちばん後の者となり、またみなに仕える者とならなければならない」と言われます。まず、イエス様が「腰を下される」といのは、疲れたから座られたのではなく、「ラビが人々に教える姿」をとられたのです。弟子たちは、イエス様が何か大切なことを自分たちに教えるのだと気づきます。イエス様が話されたことは、彼らにとっても、意外であったでしょうし、もちろん今の私たちが普通に考えていることとも矛盾している教えです。

 イエス様は、理解できないでいる弟子たちの様子をご覧になられ、幼子を抱き寄せて「わたしの名の故に、このような幼子の1人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。……わたしを遣わされた方を受け入れるのである」と言われます。聖書の中で【幼子】というと「無力な者」「弱い者」という意味で使われていたようです。私たちの生活での【幼子】は、大人がしないような危険な事に興味を示したり、何が気に入らないのか急にぐずったりすることがあります。

 イエス様は、「弱い立場の人、貧しく苦しむ人、敬遠される人、自分勝手な人のような【幼子】を受け入れなさい」と言われているようです。私たちは、このような【幼子】を受け入れるとき、【聖霊】が働かれているのではないでしょうか。私たちがイエス様の弟子として「第一者(天国の栄光を受ける者)」になるためには、【三位一体の神】との関わりが不可欠と言ってもいいでしょう。私たちは、心から【幼子】を受け入れることができるようになればいいですね。


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