私のイエス様という種 年間第24主日(マルコ8・27〜35)
私たちにとって【イエス様】はどのようなお方なのでしょうか。私(たち)にとってのイエス様は、優しい方、厳しい方、ただ黙っていつも側にいてくださる方、私を愛してくださる方などいろいろなお姿があるのではないでしょうか。今一度、「私にとっての【イエス様】」を振り返って見てもいいのかもしれません。
きょうのみことばは「ペトロの信仰告白」「初めての受難の予告」そして「イエス様に従うこと」を伝えている場面です。イエス様は、地中海沿岸のフェニキア地方、ガリラヤ湖沿岸のデカポリス地方で人々に教えられ癒されました。その後イエス様は、さらに北上しファリポ・カイサリア地方に進まれます。イエス様の噂は、「人々はかえってますます言い広めた」(マルコ7・36)とあるように、いろいろな所に知れ渡っていきました。
人々の噂がイエス様の耳にも入られたのでしょう、イエス様は、弟子たちに「人々はわたしを何者だというのか」とお尋ねになられます。弟子たちは、イエス様に「洗礼者ヨハネだと言うものあれば、エリヤだと言う者もあり、預言者の一人だと言う者もあります」と答えます。イエス様の噂は、イエス様の耳に入ったように弟子たちの耳にも入っていたようです。
イエス様は、人々の噂ではなく、ご自分の一番身近くにいる弟子たちに「それでは、あなた方はわたしを何者だと言うのか」と言われます。この言葉は、私たち一人ひとりにも言われているのはないでしょうか。私たちは、みことばによってイエス様のことを知り、さらに、日々の信仰生活の中で、また黙想や研修会でイエス様のことを深めていきます。その中で私(たち)は、イエス様への思いが形成されていくのではないでしょうか。しかし、私(たち)の【イエス像】は、残念ながらイエス様のある一部分に過ぎないと言ってもいいのかもしれません。私(たち)にとってのイエス様は、どのようなお方なのでしょう。
ペトロは、イエス様の質問に「あなたはメシアです」と答えます。イエス様は、ペトロの答えを聞かれて「このことを誰にも話さないように」ときびしく、戒められます。人々は、【メシア】が来るのを長い間待っていました。多くの預言者が現れるたびに、「この方こそメシアに違いない」と思ったことでしょう。祭司やレビ人でさえも、洗礼者ヨハネが現れた時「あなたはどなたですか」(ヨハネ1・19)と尋ねたように彼を【メシア】だと思ったほどでした。ですからペトロの答えは、自然な答えと言ってもいいのかもしれません。では、なぜイエス様は、ご自分が【メシア】だということを厳しく戒められたのでしょう。それは、人々の中の【メシア像】が成熟していなかったからではないでしょうか。
イエス様は、弟子たちが納得していない様子をご覧になられたのでしょう。それでイエス様は、【メシア】とはどのような者かを分からせるために、「人の子が多くの苦しみを受け、……排斥され、殺され、そして3日の後に復活するはずである」とあからさま(はっきり)と話されます。私たちは、このことを頭では理解していますが、心の底までそれを信じているでしょうか。ミサの集会祈願に「ひとり子イエスは、十字架の苦しみをとおして、あなたに従う道を示してくださいました。イエスを救いの主と信じるわたしたちを、みことばによって照らしてください。やみに迷うことなく、あなたへの道を歩むことができますように」とあります。私たちは、ミサの中でイエス様が【メシア(救い主)】ということをもっと深く信じることができたらいいですね。
さて、ペトロはイエス様の言葉を聞き、いさめ始めます。イエス様と毎日を過ごしていたペトロを含め弟子たちでさえ、人々と同じように【メシア】が来てローマからの支配ではなく、新しいイスラエルの王として自分たちを救ってくれるはずだと信じていたのです。ここに、ご自分が【メシア】であることを、「誰にも話さないように」と戒められた理由があったのです。イエス様は、ペトロに「サタンよ、引き下がれ。あなたの思いは、神のものではなく、人間のものである」と厳しく叱られます。イエス様が言われた「サタン」とは、「悪魔」と言うことではなく、「おん父のご計画を妨げる者」という意味のようです。もしかしたら、私たちもイエス様のことを人間的な見方で「イエス様はこうあるべきだ」と思っているのかもしれません。
イエス様は、弟子たちや群衆に「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を担って、わたしに従いなさい。」と言われます。パウロは、手紙の中で「わたしこそキリスト・イエスにおいて、福音をもってあなた方を子としてもうけたのです。ですから、あなた方にお願いします。わたしに倣う者になってください。」(1コリント4・15〜16)と伝えていますし「わたしたちはみな、……キリストのうちに満ちているもので満たされて、その背丈にまで達するようになるのです」(エフェソ4・13)と伝えています。私たちは、洗礼の恵みを通してイエス様に従うものとなったのです。私たちは、イエス様と一体となり頂いた十字架を担いながらおん父への道を歩むことができたらいいですね。
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