エッファタ(開け)という種 年間第23主日(マルコ7・31〜37)
東日本大震災の時に、何人かのろう者の方が避難所に近所の方の助けを借りて避難されました。しかし、彼らは、耳が聞こえないために周りのアナウンスが聞こえず、せっかくいろいろな物資が来たことに気づかなかったり、大切なお知らせを聞くことができなかったりとかなりのストレスが溜まったようです。最近では、手話ボランティアや文字やイラストによっての連絡があり、以前よりはかなり改善されてきたようです。私たちにとって、耳が聞こえないということはどのようなことなのでしょうか。
きょうのみことばは、イエス様が「耳が聞こえず、口のきけない人」を癒す場面です。イエス様は、ガリラヤでファリサイの人々とエルサレムから来た律法学者たちと問答をした後、フェニキア地方に行かれます。みことばには、「そして家に入り、誰にも知られたくないと思っておられたが、……」(マルコ7・24)とあります。イエス様は、何故だか分かりませんが人と会うことに疲れたのか、一人になられたかったのかユダヤ人たちが言う、異邦の地方に退かれます。
きょうのみことばの初めに書かれた「ティルス地方を去り、シドンを経て、ガリラヤの湖のほうに戻り、デカポリスに入られた」という地方を地図で追ってみると、イスラエルの北にあり、地中海に面したティルス地方からさらに北シドンに進まれ、そしてガリラヤに戻られ、さらにガリラヤ湖を渡ってヨルダンへ渡られます。イエス様の足跡を見ますと、あえてユダヤ人を避けられているように思えますし、ユダヤ人たちが蔑んでいた異邦人たちのところに福音を伝えようとされたようにも思われます。
イエス様がデカポリス地方に入られたことを知った人々は、「耳が聞こえず、舌が回らない人」をイエス様の所に連れてきて、その上に手を置いてくださるように願います。この「手を置いて」というのは、文字通り「手を置く」というのではなく、「癒して欲しい」という意味のようです。当時は、今のように手話などありませんし、ましてや補聴器やタブレットなどありませんから、書き板に文字を書くか、手振りでコミュニケーションをとっていたのではないでしょうか。周りの人が、耳が不自由な人をイエス様の所に連れてきたというのは、この人の人柄が良く、周りの人に慕われていたのかもしれません。もちろん本人の希望もあったでしょうし、それ以上に周りの人が心から「耳が聞こえるようになり、口がきけるようになって欲しい」という強い願いがったのではないでしょうか。
イエス様は、彼らの信仰の強さに心を打たれたのでしょう。その人を、群衆から連れ出し、離れた所に連れ出されます。イエス様にとって【その人】の癒しというのは、個人的な触れ合いだったのかもしれませんし、「誰にも言わないように」とありますから、ご自分が「メシア」であるということを「今」は知られたくなかったのかもしれません。イエス様は、その人の両耳に自分の指を差し入れ、また、ご自分のつばをつけてその舌に触れ、天を仰いて嘆息し、「エッファタ」と仰せになられます。
この人は、たぶん跪いていたことでしょう。イエス様は身をかがめてその人の頭を抱くようにして、ご自分の人差し指を耳に入れられたのではないでしょうか。この人は、イエス様の手の温もりを肌で感じ、自分の耳に入ってくる指の動きを感じ、自分の唇を割って入ってくるイエス様の指を舌で感じたことでしょう。この人は、どのような気持ちでイエス様の指を受け入れていたのでしょうか。「ああ、これでようやく周りの人ともっとはっきりと通じ合うことができる」と思ったのかもしれません。
イエス様は、天を仰いで【嘆息】されます。イエス様は、この人のこれまでの辛さ、悲しさをご自分の辛さのように受け止められ、憐れに思われため息をつかれたことでしょう。ため息ですから深く息を吸われた後に深く息を吐かれながら【エッファタ(開け)】と言われます。みことばには、書かれてありませんが「ああ、辛かったね」と何度も繰り返されながら、一息、一息を吐かれたのかもしれません。そして、この人は、イエス様の【息】で満たされて癒され、ようやく「罪の状態から解放」され、耳が開け、舌のもつれは解け、はっきりと口がきけるようになります。
私たちにとって「耳が聞こえない」ということはどのようなことでしょう。実際に耳が聞こえないこともありますが、自分のこと、仕事のこと、怒りや悲しみ、人間的な楽しみや自分の弱さからくる罪などで一杯になり、「『三位一体の神』の声が聞こえない」ということではないでしょうか。イエス様は、そんな私たちの耳に指を差し入れられ、【エッファタ(開け)】と言われて【息】を吹き込まれてくださるのです。私たちは、自分からイエス様の所に行くことができない時、人の助け必要なときもあることでしょう。そして、イエス様の息で満たされ、【罪から解放され】、はっきりと【三位一体の主】の声を聴こえるようになり、口でみことばを伝えるようになるのではいでしょうか。私たちは、心からイエス様に「どうぞ私の耳を開いてください」と祈ることができたらいいですね。
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