2つの「信じる」という種 年間第21主日(ヨハネ6・60〜69)
私たちは、人からの悪口を言われた時、心に辛い傷を残します。同じように、人から裏切られた時はもっと深い心に傷を残すことでしょう。その人との関係が親しかった場合は特に傷が深く癒されるには、時間がかかるのではないでしょうか。詩篇に「わたしが頼みとした親しい友、ともにパンを食べた彼さへも、わたしに対してかかとを上げました」(詩篇41・10)と書かれています。その心の傷を癒してくださるのは、三位一体の神様の愛の他はないのです。
きょうのみことばは、イエス様について行った弟子たちの多くが離れていく場面と、12人の弟子たちがイエス様との関係を見つめ直す場面です。イエス様から満腹するほどパンと魚を頂いた群衆は、イエス様をイスラエルの王としようと思い、さらに、自分たちの心の渇きを癒してくださるようについて行ったにも関わらず、イエス様に不平を言い、徐々にイエス様から離れていきます。イエス様について行った多くの弟子たちは、イエス様がご自分のことについて「わたした天から降ってきたパンである」(ヨハネ6・41)とか「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた方のうちに命はない」(ヨハネ6・53)と言われた言葉につまずき、不平を言ってイエス様から去って行きます。
彼らは、イエス様の話が他のファリサイ派や律法学者たちと違う教えと感じていましたが、イエス様の話が自分たちの理解を超えた時、「これはとんでもない話だ。誰がこんな話を聞いていられよう」と言って不平を言います。彼らは、イエス様が、「しかし、あなた方の中には信じない者もいる」と言われるように、一応は、信じたのでした。ただ、彼らの【信じた】のは、あくまでも人間的な考えでしか信じることができなかったのです。
イエス様は、「それでは、人の子が元いた所に登って行くのを見るなら……」と言われます。このことは、イエス様が十字架上で亡くなり3日目に復活し、さらにおん父の元に戻るという【昇天】のことを話されているようです。イエス様は、ご自分だけが天に上げられることを言われているのではなく、自分について来た人全てをおん父の元に上げようとされるお方です。そのために「命を与えるのは霊である」と言われます。この【霊】は【聖霊】のことを言われているようです。イエス様は、ここで【聖霊】と【肉】とを用い、【肉】に頼ることの虚しさについて彼らに話されておられます。しかし、残念なことに彼らは、【肉(人間的な考え方・人間全体)】から離れることができなかったのでした。
イエス様は、「わたしがあなた方に話した言葉は、霊であり、命である」と言われます。このことはヨハネ福音書の「み言葉は神とともにあった。……み言葉の内に命があった。この命は人間の光であった」(ヨハネ1・1〜4)を思い起こすことができます。イエス様の言葉は、ご自身の全てを私たちにお与えになられ、さらにその全てを霊によって信じる時、私たちが【永遠の命】に入ることができると言われているのではないでしょうか。イエス様は、私たち一人ひとりが滅びることなくご自分とともに【永遠の命】に入ることを望まれているのです。しかし、イエス様から離れる人もいたのです。イエス様は、誰が信じないか、また、誰が裏切るかを、初めから知っておられました。この【裏切る人】はイスカリオテのユダのことを指しています(ヨハネ6・71)。ユダは、イエス様の弟子でしたが、彼の中には人間的な考えに固執して心底イエス様のことを信じることができなかったのではないでしょうか。
イエス様は、残った12人弟子たちに向かって「まさか、あなた方まで離れて行くつもりではあるまい」と言われます。この時のイエス様のお気持ちはどのようなものだったのでしょう。きっと悲しい気持ちとともにせめて「あなた方だけは残っていて欲しい」という期待のような気持ちではなかったでしょうか。この言葉は、聖体を頂き「パンを分け合った友」として、私たち一人ひとりに言われているのかもしれません。
ペトロは弟子たちを代表として「主よ、わたしたちは誰のもとに行きましょう。……あなたが神の聖なる方であることを信じ、また知っています。」とイエス様に答えます。ペトロは、意識して言ったのかどうかわかりませんが、「神の聖なる方であることを【信じ】、また【知って】います」と答えています。ペトロは、自分たちの立場とか人間的な利益や損得など度外視して心底イエス様について行こうと思っていたのでしょう。同じイエス様のことを【信じて】ついて行ったユダとペトロの差は、頭で理解して【信じる】か、心底【信じ抜く】ことができるかということではないでしょうか。ペトロは、感覚的にイエス様が永遠の命の言葉を持っていることを信じ、この方について行こうと思ったのでしょうし、そのイエス様の恵みの素晴らしさを【知って】いたのでしょう。
私たちは、自分の中にある「イエス様を信じる」気持ちをもう一度振り返ってみるのもいいのではないでしょうか。そして、ペトロのように改めて「あなたが神の聖なる方であることを信じ、また知っています」と言うことができたらいいですね。
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