ファリサイ的 年間第22主日(マルコ7・1~8,14~15,21~23)
「ファリサイ派」と聞くと、「偽善者」「イエスに嫌われる人々」というイメージが焼き付いています。実際には、ファリサイ派の人々というのは、とても模範的な人々です。例えば、「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言い伝えを固く守り、念入りに手を洗わずには食事をせず、また市場から持ち帰った物は、まず水で清めてからでなければ、それを食べることはなかった」(マルコ7・3~4)と言います。このことからも彼らはとてもきれい好きで、人々からとても尊敬されていたのではないでしょうか。それからすると「どうしてあなたの弟子は昔の人の言い伝えどおりに振る舞わず、汚れた手で食事をするのか」(マルコ7・5)とファリサイ派の人々が語るように、弟子たちは汚い手で食事をし、マナーも悪い。むしろ弟子たちをとがめたくなります。
ローマで二年半生活した時、市内のバスに乗ろうとすると、みんな「我先に」と言わんばかり、バーと押し寄せてきて、わがままだなあと思いました。また若者たちはピザなどを歩きながら食べ、終わったらゴミを平気で道端にポイと捨てていきます。自動販売機で切符を買おうとすると、壊れたりしていて、おつりがちゃんと出てこない。そのためいつも「T」のマークがついた「タバッカイオ」で切符を買っていました。そんな生活から解放され、日本に帰ってきた時、日本はとても安全で落ち着くなあと思いました。
そんなローマでも、障がい者に対してはとても親切です。それは日本に欠けていることかもしれません。例えば、障がい者の方がバスに乗ろうとすると、必ず手を差し伸べる人がいるし、出発に少々時間がかかってもみんな優しい目で見ています。それに対して、日本の場合はどうでしょうか。けっこうみんな忙しくしているし、時間通りに動いていくことに慣れています。障がい者たちがバスに乗って来た時、優しい目で見ているだろうかと思ったりします。もしかして、「急いでいるのに、あんたのせいで、バスの出発がずいぶん遅れているよなあ」と、何となく冷たい視線を向けていないでしょうか。日本はとても親切と言われたりしますが、こうした弱い人たちに対して、心からの優しさを持っているだろうかと思います。私たちの心を振り返ってみる時、「ファリサイ的」な思いが根付いていないか、反省したいものです。
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