とんでもない話 年間第21主日(ヨハネ6・60~69)
今日の箇所の前で「わたしが父によって生きているように、わたしを食べる人もわたしによって生きる」(ヨハ6・57)とあるように、今日のみことばは前の箇所の続きです。こうした内容に弟子たちの多くの者は、「これはとんでもない話だ。誰が、こんな話を聞いていられよう」(ヨハ6・60)と言い、弟子たちの多くはイエスに背を向けて去っていき、イエスと行動をともにしなくなってしまいます。イエスにとっては、本当の姿を示した時ですが、多くの人にとっては理解できなかったのでしょう。
私たちの人生でも、「とんでもない話」を聞いたり、体験したりします。2011年3月11日に東日本大震災が起こり、たくさんの犠牲者たちがでました。その後、たくさんの援助やボランティア活動によって復興への歩みが進んでいきました。原発事故の地域は、なかなか帰還できなくて、困惑していますが、宮城県、岩手県では街づくり、かさ上げ工事などが進み、少しずつ形にはなってきています。そうした中で、岩手県大槌町の北にある山田町は、他の町に比べて復興が遅れています。一つの原因は、詐欺みたいなNPO法人に直面したり、町での種々の癒着があったり…。一大事の時に、そうした不正がまかり通ったことは、とても悲しいことで、人の苦しみを逆手にとった「とんでもない話」です。
最近、教会から離れていく人たちを耳にしたりします。「教会に救いを求め、助けを求めて訪問したのに、何の効果もなかった」とか、「教会に期待して洗礼を受けたけれど、裏切られてしまったこと」など。当人にしてみれば、「とんでもない話」だったかもしれません。でも冷静に考えてみたら、教会の担当者が忙しくて、対応できなかったことや、お互いに落ち着いて対話ができなかったことなど。けっこう自己中心に考えてしまった部分が「とんでもない話」になった場合もあります。
「とんでもない話」。冷静に考えてみると、自分の都合ばかりを考えてしまって、イエスの思いや他人の思いを、自分の中でよく消化できていない時なのかもしれません。
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