天から降る 年間第18主日(ヨハネ6・24~35)
司祭になった頃、最初の4年間は福岡修道院で中学生志願者の係として働きました。福岡教区内で小教区を持っていないこともあり、主任司祭が留守となる教会のお手伝いを依頼されることがけっこうありました。
ある年の8月、鹿児島教区にある枕崎教会の手伝いを依頼されました。その頃、新幹線は鹿児島まで開通していなかったので、特急列車とはいえ、博多から西鹿児島まではけっこう時間がかかりました。それでも風景を見ながらの旅はけっこう楽しいものでした。西鹿児島駅に着き、せっかく鹿児島を訪問したので、市内にあるザビエル教会や鴨池教会にも立ち寄ってみました。ところが、夏は桜島の火山灰の影響で、火山灰が鹿児島市内の方へ降ってきて、市内全体がかすんでいます。さらに火山灰が道路に落ちると、車がそれを巻き上げ、町全体がいっそう灰に覆われたような光景でした。部屋の窓を開けると、灰が入ってくるし、閉め切ると、とても暑い。一歩、枕崎の方へ行ってみると、火山灰の影響は少なくて、まだいいなあと感じました。
今日のみことばで、「神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるもの」(ヨハ6・33)とイエスは語ります。このことばの背景には旧約時代にモーセとイスラエルの民が、荒れ野を旅した思い出が記憶として残っています。荒れ野の厳しい環境の中で、イスラエルの民は飢えてしまいますが、天からマナが降ることにより、彼らは生き延びていきます。まさに天から降るものによって、命を得ます。鹿児島にも火山灰ではなく、「神のパン」が天から降ってくると、様相も違ってくるのかもしれません。
「わたしが命のパンである。わたしの所に来る者は、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は、もはや決して渇くことがない」(ヨハ6・35)とイエスは語ります。天から降る「神のパン」の話によって、永遠のいのちへの招きを感じます。
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