故郷で驚く 年間第14主日(マルコ6・1~6)
私の郷里は長崎県の松浦市ですが、近くにある大岳山、城山、大崎海水浴場を見ると、「ふるさとに帰ってきたなあ」と思います。ふるさとの山や海の原風景は、幼いころのことを思い出させます。
休暇の間、ふるさとの教会(西木場教会)でミサをささげることがあります。せっかくなので、二つの巡回教会(御厨教会と福崎教会)でもミサをささげるようにしています。巡回教会には私の叔父や叔母がいるし、ふだんからお祈りしてくださっている方々もたくさんいて、その恩返しのつもりでささげています。二つの巡回教会はもとより、一番の難題は、自分の所属教会の西木場教会。兄弟姉妹、甥や姪をはじめ、親戚、同級生、小学校時代の友人など、小さい時から知っている人も多数いて、話しづらいものです。主任司祭に説教してもらうのが一番よいのですが、主任司祭にしてみればふだんからこれらの教会で説教しているだけに、ちょっと休みたい気分があるようです。
イエスもまた、ふるさとのナザレで教え始めます。みんなよく知っているだけに話しづらかったことでしょう。「この人はどこからこういうことを授かったのだろう。この人は大工ではないか」(マルコ6・2)の言葉がそのことを物語っています。さらに今日の箇所で二回、「驚く」という言葉が登場します。最初は、イエスが会堂で教え始めたことに「人々は驚いた」(6・2)とあり、ギリシア語では「エクプレーソー」が使われ、「圧倒される」「感動する」「心を打たれる」という意味が込められています。まさに人々の驚嘆が感じられます。もう一つは、(イエスは)「郷里の人々の不信仰に驚かれた」(6・6)で、ギリシア語では一般的な「タウマゾー」が使われ、「不思議に思う」「不審に思う」を意味しています。失望したようなイエスの驚き。単に「驚く」と言っても、意味の違いがあります。
今度、故郷で休暇を取った時には、どんな驚きがあるでしょうか。
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