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信じるという種 年間第18主日(ヨハネ6・24〜35)

 少し前に、聖体をいただいた時に、お腹が温かくなったことがあります。これは、とても不思議な感覚で今まで、聖体を拝領して初めての体験で、改めてイエス様が私の中に入られた、という感じを受けました。

 きょうのみことばはイエス様が大勢の群衆に「パン5つと、魚2匹」で満腹にさせる徴(しるし)を行なった後に、ご自分を「わたしは命のパンである」と群衆に向かって伝える場面です。みことばは「群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込み、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た」という言葉から始まっています。ここで興味がある言葉として「大勢の群衆」(ヨハネ6・2)から「群衆」に変わっているところです。イエス様は群衆がご自分を「王」にしようとして無理に連れて行こうとしているのを知り、山に退かれます。そのイエス様を見た大勢の群衆は、翌日イエス様がいないのを知るのです。今日のみことばの群衆は、イエス様を「王」にするのではなく、もっと別の意味でイエス様を捜し求めていたのでしょう。

 イエス様は、自分を追いかけてきた群衆に向かって「あなた方がわたしを捜し求めるのは、徴を見たからではなく、パンを食べて満腹したからである。……永遠の命に至らせる食べ物のために働きなさい」と言われます。イエス様は、彼らが肉体的な空腹を満たされ、さらに何かを求めてご自分を捜しに来たことを知っておられ、もっと大切な「永遠の命に至らせる食べ物」を得るようにと勧められます。彼らは、精神的または霊的な渇きを満たそうとしていたのかもしれません。今の私たちは、物質的な豊かさで溢れていますが、霊的な渇きは満たされない方が多いのではないでしょうか。そのような私たちの中にイエス様は「永遠の命に至らせる食べ物のために働きなさい」と言われているようです。

 群衆は、イエス様から「永遠の命に至らせる食べ物のために働きなさい」と言われたために「神の業を行うためには、何をすれば良いのですか」と尋ねます。彼らにとって「永遠の命に至る」ためには、何か特別なことをしなければならいと思ったのでした。私たちにも言えるかもしれませんが、例えばボランティア活動や教会や社会のために何かするというような【活動】に目を向けがちです。ただ、活動をしたくても病気になり寝たきりになった人、高齢で働くことができない人、さまざまな理由で【活動】という「神の業を行うこと」をできない人はどうするのでしょうか。イエス様の愛は、活動ができる人、できない人にも分け隔てなく注がれるのです。

 イエス様は、「神が遣わされた者をあなた方は信じること、これが神の業である」と言われます。イエス様の答えは、何か【する】のではなく、【信じる】ということだったのです。私たちがイエス様を【信じる】というのは、【活動】ではなく【感じ方】ですし、たとえ何か特別なことをしなくても、「今ここに、イエス様がおられる」ということを信じるとき、感謝が生まれ、イエス様の【愛】を感じることではないでしょうか。イエス様を【信じる】というのは、たとえ体がうまく動かすことができなくても「神の業」を行うことであり、【永遠の命に至る】ことができるのです。このことは、私たちに大きな勇気と希望、そして慰めをいただけるのではないでしょうか。イエス様は、「何もしなくてもいいよ。あなたがそこにいて、わたしを【信じている】だけでいいんだよ」と言われているような気がします。イエス様はご自分を【信じる】だけで、私たちが肉体的な満腹ではなく、霊的にも満たされると言われているのではないでしょうか。

 群衆は、さらにイエス様に「あなたを信じるために、あなたはどんな徴を行なってくれますか。どんなことを行うのですか」と尋ねます。彼らは、イエス様が「信じなさい」という答えに対してまだ「頭で考え」目に見える【徴】を要求してきます。彼らはイエス様を「信じる」ことによって何か見返りが欲しかったのです。これは、私たちが神の子であるイエス様を自分たちと同等の立ち位置にするという傲慢な心への傾きといってもいいでしょう。

 群衆は、常に何かをイエス様に求めています。それほど彼らは飢え渇いていたのでした。彼らは「主よ、そのパンをいつもわたしたちにお与えください」と願います。この言葉は、サマリアの女性がイエス様に「主よ、喉が渇くことのないように……、その水をわたしにください」(ヨハネ4・15)の言葉を思い起こすことができます。イエス様は、このときも「婦人よ、わたしを信じなさい」(ヨハネ4・21)と言われています。イエス様は、群衆に向かって「わたしが命のパンである。……わたしを信じる者は、もはや決して渇くことがない」と言われます。イエス様は、ご自分こそがあなた方(私たち)にとって、おん父から遣わされた「命のパン」であり、そのパンを食べることで渇くことがない【永遠の命】を得ることができると言われているようです。

 私たちがいただいている【聖体】は、「永遠に至らせる食べ物」であり、目に見え、味わうことができるイエス様の【愛】といってもいいでしょう。私たちは、どのような時もイエス様を【信じる】ことができたらいいですね。


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