委ねるという種 年間第17主日(ヨハネ6・1〜15)
赤ちゃんが親に抱かれている姿は、その中に愛を感じ、和んだ感覚、幸せな感覚をいただきます。それは、赤ちゃんが腕の中に包まれ親に全てを委ね切っているとともに、親も幼子を愛おしんでいるからではないでしょうか。
きょうのみことばはイエス様が群衆に大麦のパン5つと魚2匹を満腹するまで、食べさせるという場面です。イエス様と弟子たちは、山に登られそこに座られます。聖書の中で【山】は神聖な場所とされています。また、【座る】という動作は、ラビが人々に教え始めることを表しているようです。ですから、イエス様は、弟子たちに神聖な所で何か特別なことを教えようとされたのでしょう。
さて、イエス様は、大勢の群衆がご自分の所に来るのをご覧になられます。彼らは、イエス様が病人を癒すという徴(しるし)を見たからでした。『パンを増やす』奇跡は、『四福音書』の中で書かれています。ただ、他の福音書では、「人里離れた所」と書かれ方をしているのに対して、ヨハネ福音書では、【山に登られた】とあり、マルコでは、「牧者がいない羊のよう」とか「憐れに思い」(マルコ6・1〜44参照)というよう群衆を癒す、何か彼らのために施すというような表現で書かれていますが、ヨハネ福音書では、まだ、群衆に何も教えたり奇跡を行ったりする前から、フィリポに「どこからパンを買ってきて、この人たちに食べさせようか」と言われ、奇跡を通して別の大切なことを現そうとされているのではないでしょか。そして、もう一つの違いは、イエス様ご自身が群衆に食物を配られているということです。
フィリポはイエス様からの尋ねられたことに対して「めいめいが少しずつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えます。フィリポの答えは、イエス様が「どこからかパンを買ってきて」と言われたということもあり、「パンを買う」ということからの考えでした。さらに、アンデレは「ここに、大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう」とイエス様に伝えます。もし、私たちがこの場にいたとするなら、彼らと同じような答えたことでしょう。
みことばは、「フィリポを試すために、こう仰せになったが、ご自分では何をしようとしているかを知っておられた」とあります。イエス様は時々、私たちの能力や知識、または時間、さらに財力の許容範囲を超えたことを要求されることがあります。私たちは、それを【試練】とか【十字架】または【壁】という言い方をしています。私たちにとってこれらのものは、できれば避けて通りたいものですが、イエス様あえて私たちにそれらのものをくださるのです。みことばには、「これから起こることを知っておられた」とありますから、イエス様は、私たちが三位一体の神様の恵みに触れるために、これらの【試練】を私たちにくださっているのではないでしょうか。イエス様は、私たちが何か悪いことをしたので罰として【試練】を与えられるのではなく、私たちをおん父の方向へ導くために与えられると言ってもいいでしょう。
イエス様は、アンデレから渡された「大麦のパン5つと魚2匹」を受け取られ、感謝の祈りを捧げ、座っている人たちに分け与えられます。イエス様は、まず、おん父に対して【感謝の祈り】を捧げられます。それは、これから行おうことがおん父の栄光となるための祈りと言ってもいいでしょう。感謝の祈りの後イエス様ご自身が群衆に配られます。このことは、『最後の晩餐』の情景を思い起こすのではないでしょうか。ヨハネ福音書の『パンを増やす』奇跡は、ただ単に群衆を満腹させるための奇跡ではなく、『最後の晩餐』を意識させるものなのかもしれません。ですから、「過越の祭りが近づいていた」という言葉は、このことを伝えるために書かれたと考えられかもしれません。この素晴らしい奇跡は、少年が渡した【僅かな】食べ物から行われたのです。このことは、私たちの生活にも当てはまるのではないでしょうか。イエス様は、私たちの【小さな捧げ物】を使われそれを感謝して【大きな奇跡】を行なってくださいます。
イエス様は、弟子たちに「少しも無駄にならないように、余ったパン切を集めなさい」と言われます。これは、もったいないから後片付けをしなさい、という意味ではなく、おん父からの【恵み】を無駄にしないように、と言われているのではないでしょうか。私たちは、せっかくいただいたおん父からの恵みを感じないばかりか、すぐに忘れ「何もなかった」ように日常の生活に戻るという傾きがあるのかもしれませんね。
きょうのみことばから、改めて目の前にある【試練】の大きさに「自分の力でなんとかしよう」とするのではなく、「私の【小さな捧げ物】をどうぞ主よお使いください」と差し出すことの大切さ、あとはおん父への信頼と【お委ね】のみで十分である、ということを味わうことができるのではないでしょうか。私たちは、心からおん父に【お委ね】するとともに【感謝】のうちに歩むことができたらいいですね。
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