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新たに漕ぎ出すという種 年間第16主日(マルコ6・30〜34)

 私は、約20年ほど前でしょうか、大阪の修道院にいた時に初めて1人で自動車に本や聖品を積んで姫路、岡山、四国へと出張宣教へ出かけ、いろいろな方にお世話になりながら10日ほどして自分の修道院に戻りました。それまでは、先輩のブラザーと一緒に行っていたのですが、1人という緊張感とともに1人で無事に行って帰れたという充実感があったのを覚えています。

 きょうのみことばは、宣教から帰ってきた弟子たちにイエス様が「……しばらく休みなさい」と言われる場面です。弟子たちは、2人ずつイエス様に呼ばれ、杖一本でパンの袋も小銭も持たずに宣教に派遣されます。彼らは、そこでおん父への信頼と宣教中に起こったさまざまな出会いと恵み、聖霊の働きを感じたことでしょう。みことばには「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」とあります。彼らは、どのような気持ちでイエス様に報告したのでしょうか。みことばの【残らず】とありますので、彼らが行った奇跡や教えによってたくさんの人が癒やされ、変わっていったことへの喜びや、受け入れられずに辛かったことなどをイエス様に報告し、また、他の弟子たちともそれぞれ分かち合ったのではないでしょうか。

 イエス様は、弟子たちの報告に耳を傾け、彼らの宣教の成果を喜ばれ、おん父に感謝されたことでしょう。イエス様は、喜びのうちに、興奮して話している弟子たちをご覧になられ、彼らが疲れていることも感じられ、彼らに【休み】が必要だと思われたのでしょう。それで「さあ、あなた方だけで人里離れた所に行き、そこでしばらく休みなさい」と言われます。このことは、私たちにも必要なことではないでしょうか。宣教すること、何かに没頭すること、仕事や創作などさまざまな働きに一生懸命に打ち込んでいる時、時には、【休み】を入れないと長続きしません。そんな時には、ちょっとした息抜きも必要なのではないでしょうか。きっと他の修道会もそうでしょうが、私がいる修道会も「年の黙想」を行ない、日常の生活を離れ約一週間、「黙想の家」を借りて黙想をします。そこで、指導司祭の話を聞き、三位一体の神との対話の中で自分自身を振り返り、新たな気持ちで目標を立て次の1年を過ごす活力をいただきます。

 弟子たちは、イエス様と共に自分たちだけで舟に乗って人里離れた所にいきます。みことばには、「出入りする人が多くて、食事をする暇さえなかったからである」とあります。きっと、多くの人たちは、弟子たちの行なった奇跡や教えに惹かれて付いて来たのではないでしょうか。彼らは、弟子たちが話していたイエス様に会えたことの喜び、今度は、イエス様からいろいろなことを聞きたい、もっと癒やされたいと思って集まってきたのでしょう。それほど弟子たちの宣教は、素晴らしかったのではないでしょうか。彼らは、イエス様と弟子たちが舟で出発するのを見て、方々の町々から駆けつけ弟子たちより先に着いたのです。弟子たちより後に出発した人々が先に着くというのも変なことですが、それほど人々は、イエス様の話を聞き、癒やされたということへのあらわれではないでしょうか。

 イエス様と共に舟に乗った弟子たちは、しばらく舟の中で休んだことでしょう。ある神父様が「最近は、オンライの会議、研修や講演が増え、移動時間が無くなってしまって休むことができません。以前は、この移動時間に考えをまとめたり、気分転換をしたりする時間があったのですが、最近は難しいですね」と言っていました。弟子たちは、舟の揺れと共に人々から離れ、自分たちだけの時間に安心してうとうとと休んだのではないでしょうか。また、【舟】というのは、教会と言ってもいいでしょう。教会は、私たちとイエス様との出会いの場であり、自分たちの信仰を培う場であるとともに安らぎの場であり、新たな宣教に向かう場と言ってもいいでしょう。私たちは、教会という【舟】にイエス様とともに乗り込み、それぞれの場に出かけていき福音宣教を行うのです。

 さて、イエス様と弟子たちの舟が岸に着くと、そこには、大勢の群衆が集まっていました。みことばには「イエスは大勢の群衆をご覧になり、牧者のいない羊のようなありさまを、憐れに思い、いろいろと教え始められた」とあります。エレミヤ書に「わたしは彼らの上に牧者たちを起こし、この牧者たちが彼らを牧する。彼らはもはや恐れることも、怯えることもなく、失われるものもいない」(エレミヤ23・4)とあります。牧者がいない羊は、野獣からの攻撃、牧草や水場への導きがない状態で、死を意味しています。イエス様は、群衆の様子を見て「今救わないと、彼らは霊的な死、信仰の死へと向かってしまう」と思われたのでしょう。それほど、群衆は、疲れて乾き切っていたのです。

 イエス様は、そんな彼らを憐れに思われ、みことばを伝え、奇跡を行われたのです。人々は、イエス様に触れられ顔の表情が豊かになったことでしょう。私たちは、イエス様と共に牧者として羊たちを救うために遣わされています。私たちは、イエス様が憐れに思われたその感覚を大切にし、福音宣教に漕ぎ出すことができたらいいですね。


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