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主に信頼するという種 年間第15主日(マルコ6・7〜13)

 私たちの周りには、知らないうちに物が増え、それと同じようにいろいろな情報で溢れています。そんな中にあって、私たちはどのようにして福音宣教をすればいいのかと、問われているのではないでしょうか。

 きょうのみことばは、イエス様が弟子たちを派遣する場面です。みことばは「イエスは付近の村々を回って教えられておられた。」と始められています。イエス様は、まず弟子たちにどのようにして福音を伝えるかを教えられます。弟子たちは、あくまでもイエス様に付いて行き、宣教のお手伝いをしたり、周りに集まって来た人と話をしたり、時には、悩みなどを聞いたりしたのではないでしょうか。イエス様は、そんな弟子たちの様子をご覧になられ、12人を呼び寄せ、2人ずつ組ませて宣教に遣わされます。この12人というのは、文字通りの人数ではなく新しい教会という意味のようです。この場面は、他の共観福音書にも同じように12人の弟子を呼び寄せ、と書かれてあります。ちなみに、ルカでは、12人の弟子たちを派遣した後(ルカ9・1)、再び72人の弟子たちを派遣しています(ルカ10・1)。72と言う数字は、12の6倍ですから12と同様に祝福された数という意味があるのかもしれません。

 イエス様は、弟子たちを2人ずつ組ませられます。2人は最小の共同体ですし、共同体を通して福音宣教するということを表しているのかもしれません。この2人は、助け合いながら、時には相手が走りすぎるのを制御し、さらに、意見の食い違いや行き詰まりなどを通して成長していく共同体を表しているのではないでしょうか。彼らは、最小の共同体を通してお互いを学び、その中で起ってくる聖霊の働きを感じていったことでしょう。

 イエス様は、まず【汚れた霊に対する権能】を彼らに与えます。この【汚れた霊】というのは、悪霊という意味もあるでしょうが、私たちがおん父に向かおうとすることを邪魔することを表しているのではないでしょうか。イエス様は、ご自分が宣教を始める前に、荒れ野でサタンの誘惑に遭われたように、必ず宣教をするときには、邪魔をする何かが働くということをご存知だったのでしょう。私たちのことを振り返って見た時、例えば、怠惰であったり、忙しさであったり、時には、周りの人たちの反対であったりと、私たちがおん父に向かうことを妨げるものがあるのではないでしょうか。イエス様は、そんな私たちの心の中にある【汚れた霊】を清めるという権能を弟子たちにお与えになられます。

 さらに、イエス様は、宣教に出かけるためにどのような身なりで行くかということを話されます。イエス様は、「杖1本のほかはいっさい、パンも袋も、また帯の中の小銭も持たないように、また、履物は履いてもよいが、下着は2枚着ないように」と戒められます。他の共観福音書に比べると、マルコ福音書では、【杖1本】と【履物】は許されています。旅をする上で、【杖】は歩行を助けますし、疲れた時の支えになります。また、野獣や盗賊などから身を守るためにも使われます。もしかしたら【杖】というのは、司牧者としての一つの象徴であったのかもしれません。また、【履物】は、同じように歩行をするためになくてはならないものです。当時は、今のように舗装された道ではありませんでしたので足を保護するために必要なものです。

 しかし、「パンも袋」「金銭」「2枚以上の下着」というのは、どの福音書にも共通するもので、自分の執着欲や、自分の安全を確保への傾きを、何よりもおん父ではなく自分の力に頼るという傾きを排除するということではないでしょうか。イエス様は、弟子たちを宣教に遣わすにあたり、「おん父だけに信頼しなさい」と言われているようです。さらに、イエス様は、「どこでも、ある家に迎えられたなら、その地を去るまでは、その家に留まりなさい。」と言われます。イエス様は、宣教の場所での注意を促されます。一つの家(場所)に留まるということは、自分の居心地や都合の良さ求めないようにと言われているのではないでしょうか。イエス様は、どのような環境でも受け入れ、自分の都合で宣教をするのではなく、おん父が与えてくださった所、環境で宣教をするようにと言われているのかもしれません。

 イエス様は、福音を受け入れない人もいると言われます。イエス様は、そのような人に対して戦ったり、無理強いしたりせずに、そのような人に対しても同じように福音を伝えなさいと言われているようです。しかし、最後には、「足の裏の塵」を払い落としなさいと言われます。私たちは、自分がこんなにいいことをしているので、「見てください」「聞いてください」「受け入れてください」と相手に自分を押し付ける傾きがあります。イエス様は、福音だけを伝え、後は周りの人が受け入れるか、拒否するかはその人に任せなさいと言われているのではないでしょうか。

 きょうのみことばを味わいながら、宣教をするために何が必要で何を手放さなければならないのかに気付かされるのではないでしょうか。私たちは、三位一体の神に信頼しながら、みことばを伝えることができたらいいですね。


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