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イエス様の真の姿という種 年間第14主日(マルコ6・1〜6)

 私たちは、人に対して先入観、または「フィルター」をかけて見てしまい、その人の真の姿を見落としてしまうことがあります。きょうのミサの中の『集会祈願』には、「あなたのことばを深く受けとめ、心からあなたを賛美することができますように」とあります。私たちは、みことば、または周りの人との出会いを通して、その人の中におられるイエス様のお姿に目を止めることができたらいいですね。

 きょうのみことばは、イエス様がカファルナウムで「出血病の女性」「ヤイロの娘」を癒した後、故郷である「ナザレ」に弟子たちと共に帰られ場面です。イエス様は、ナザレに向かう中、弟子たちといろいろなことを話されたことでしょう。弟子たちもイエス様の子どもの頃のことや、ナザレでの様子をイエス様に尋ねたのではないでしょうか。イエス様はナザレに着かれマリア様に弟子たち一人ひとりを紹介されたことでしょうし、マリア様も挨拶され弟子たちにイエス様のことを聞いたのではないでしょうか。

 イエス様はナザレでの滞在中に安息日を迎えられ、弟子たちやナザレの人たちと同じように会堂に行かれ、そこで教えらます。すると、イエス様の教えを聞いていた人たちは、「この人はどこからこういうことを授かったのだろう。このような力ある業さえ行う知恵をもっているとは。」と言って驚きます。彼らは、イエス様の言葉に耳を傾け深く感動しますが、イエス様を子どもの頃からよく知った人であり、親戚も知っているので、イエス様の【真の姿】を理解することができなかったのです。

 ここに、厄介な【フィルター】があるのではないでしょうか。ナザレの人たちは、イエス様のことを「大工の子」と言うようにヨセフ様の仕事を手伝い、時には、家計を切り盛りしていた姿しか知らなかったのです。彼らは、イエス様がいつこのような知恵や権威ある教えを(マルコ1・22)学んだのだろうか、律法学者のように勉強もしていないのにと驚いたのでしょう。彼らは、イエス様の「力ある業さえ行う知恵」にだけに留まり、イエス様のことばを深く心で味わうのではなく、目に見えるイエス様の姿、耳に聞こえてくる声だけを理解しようとしていたのです。しかし、それだけでは、イエス様の【真の姿】、【慈しみ深い愛】に気づくことができません。イエス様の【真の姿】を見るためには、【信仰】が必要なのではないでしょうか。彼らには、カファルナウムで癒やされた、「出血病の女性」や「会堂司のヤイロ」のように真剣にイエス様の教えや業を【聴く】、【癒やされたい】という気持ちが起こらなかったのでした。

 みことばは、「イエスにつまずいた」とあります。ナザレの人たちは、自分たちの思いと違うイエス様の姿、教え、業を理解することができませんでした。そこには、相手を「このような人だ」と言うようにうわべだけで決めつけてしまうという【傲慢】の現れとあると言っていいでしょう。【傲慢】は、私たちの目や耳を曇らせてしまう危険性を持っています。その人が良い話、信仰の話をしたり、行動をしたりしても、その人を使って話されている三位一体の神の働きまで見ることができないのです。そのような時、私たちは相手に対して批判や陰口、または、嫉妬や悪意さえ起ってきます。

 もちろん、私たちは人間的な弱さを持っています。周りの人は、その弱さに目がいき、その人の中で働いている三位一体の神の業まで身が届きません。パウロは、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで、わたしは自分の弱さを誇ることにします」(2コリント12・9)と言っています。私たちの中におられる、イエス様は、私たちの弱ささえも使って、みことばを伝えられます。時には、ありのままの姿、その人の中で働かれている三位一体の神の姿を見ることができたらいいですね。

 イエス様は、「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族の間、またその家においてだけである」と言われます。イエス様の目には、ナザレの人たちの姿、言葉がどのように映っていたのでしょうか。もし、私たちが、イエス様のこのような言葉を耳にするようなことがあれば、私たちはどのような気持ちになるでしょうか。イエス様は、私たちの信仰に対して「あなたはそれでいいのですか」と問われているのかもしれませんね。

 イエス様は、残念なことに少数の病人に手を置いて治されただけで、そのほかには、何も奇跡を行うことがおできになれませんでした。イエス様は、きっともっとたくさんことを教えたり、人々を癒やされたりしたかったことでしょう。しかし、イエス様は、それをしたくてもできなかったのです。イエス様の奇跡は、人々をおん父の方へ導くためのものです。もし、信仰が未熟な人に奇跡をおこなって癒やされたとしても、その人にとって「ああ、癒やされた。助かった」と言う体の癒しであって、イエス様への感謝、おん父の働きへの畏怖までに向かうことができません。私たちは、一人ひとりの中で働かれている三位一体の神の働きに目を止めることができ、信仰の喜びを分かち合うことができたらいいですね。


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