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聖体に心を向けるという種 キリストの聖体(マルコ14・12〜16、22〜25)

 私がいる修道院では、昨年から高齢の司祭がミサを司式する時の「聖体授与」は、比較的若いブラザーが行うようになりました。それで、私もミサの中で聖体授与の奉仕をしています。まず、授与するときは、奉仕者が司祭から聖体を受けた後に会衆に「キリストのおん体」と聖体を渡します。ある時、私は「この小さなホスチアは本当にキリストの体なのだ」と心と体で実感したのです。もちろん、それまでも「ホスチアがキリストの体」ということを信じていましたが、それはどことなく「そう教えられたから信じていた」という感じだったのです。

 司祭は、キリストの代理者として聖体を会衆に授与いたします。まさに私たちは、イエス様が「最後の晩餐」で「取りなさい。これはわたしの体である」と言われたその【聖体】をいただいているのですね。私はそう思った時改めてイエス様の慈しみの愛の深さを実感いたしました。

 きょうのみことばは、「最後の晩餐」の時に【聖体】を制定する場面です。弟子たちは、「わたしたちは過越の食事の用意をするために、どこに行ったらいいでしょうか」とイエス様に尋ねます。この食事の用意をする人というのは、特別な役割だったようです。イエス様は2人の弟子を選ばれますが、この2人というのは、ペトロとヨハネだと言われているようです。イエス様は、この2人に過越の食事を用意する特別な使命を与えられます。

 イエス様は「町に行きなさい。そこで、水瓶を担いだ男に出会うであろう。その人について行き、その人が入っていく家の主人に言いなさい」と言われます。当時、水瓶を担いで水を汲む仕事は女性が行っていました(ヨハネ4章参照)。ですから男性が「水瓶」を担ぐというのは、不思議な光景と言ってもよいでしょう。弟子たちは、イエス様から「水瓶を担いだ男に出会う」と言われた時に違和感があったでしょうが、逆に目印として見つけやすかったのかもしれません。また同時に、弟子たちは、「あれ、このようなことはエルサレムに入った時にも聞いたことがある」と思ったかもしれません。彼らは、またその時に感じた不思議さを思い出し、何か特別なことが起こるのではないか予感したのではないでしょうか。

 イエス様は、「『わたしが弟子たちともに、過越の食事をする部屋はどこか、と先生が言っておられます』とその家の主人に言うと、準備が整った2階の大広間を案内してくれる」と彼らに伝えます。イエス様は、まるでその場所がご自分のために準備されていることを、初めからわかっていたかのように弟子たちに伝えます。イエス様は、エルサレムに入られる時からご自分の「受難」の準備を、そして弟子たちとの別れとなる中で最後の食事になるであろう「過越の食事」を特別に意識されていたのではないでしょうか。

 2人の弟子たちは、町に出かけイエス様が言われた通りであったので、過越の食事を準備します。他人のために広間を貸して食事をさせるというのは、今の私たちの感覚では信じられないことではないでしょうか。ユダヤ教には、「過越祭」「仮庵の祭り」「7週の祭り」という三大祭があり、この時期になるとユダヤ人たちはエルサレムに巡礼に来ていました。ですからエルサレムの人々は、巡礼者のために自分たちの家を提供していたようです。日本でも特にお遍路さんのために行う「お接待」と似ているのかもしれません。

 イエス様は、夕方になり12人の弟子たちと共に食事を始められます。イエス様は、パンを取り、賛美をささげて、これを裂き、弟子に与えて「取りなさい。これはわたしの体である」と言われます。毎年「過越の食事」をしていた彼らは、イエス様のこの言葉を聞いた時どのように思ったでしょうか。彼らは、「なぜイエス様はパンを『これはわたしの体である』と言ったのだろう」と疑問をいただいたのではないでしょうか。もちろん、彼らはこれから起ころうとしていることを知りません、なぜイエス様が「これはわたしの体である」と言ったのかも不思議に思ったことでしょう。

 イエス様がなさった【パンを裂く】という行為は、受難を表されご自分が人々の手によって【裂かれる】ことを表しているようです。次にイエス様は、杯を取られ感謝して弟子たちに回され「これはわたしの血、多くの人のために流される契約の血である」と言われます。イエス様はパンを「体」と言われておられますが、【体】とは、肉体的な体だけではなく人格も心も全てを指しますし、「血」というのは、「生命」の源という意味のようです。私たちは【聖体】によって、イエス様の心も体も生命の「すべて」をいただいているのです。

 イエス様は、【聖体】を通して「神の国で新しい宴」まで、私たちと共にいてくださいます。また、イエス様は、【パンとぶどう酒】を取られ弟子たちに与えられた時に、それぞれ【賛美】され【感謝】されています。これは、まさに【ミサ聖祭】を指しています。イエス様はミサを通して、小さなホスチアの形となって私たちと共に、私たちの内(中)におられるのです。私たちは、イエス様のアガペの愛を感謝して改めて【聖体】に心を向けることができたらいいですね。


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