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昇天と別れ 主の昇天(マルコ16・15~20)

 主イエスが天に昇られることは、弟子たちとの別れを意味します。長い間、イエスと生活を共にしてきた弟子たちにとっては、どんなに寂しい思いを感じたことかと思います。イエスの昇天後、自分たちだけでどうやっていけばよいのか、彼らはとても不安に感じたのではないでしょうか。

 人との別れはだれにとっても寂しいものです。もう38年前になりますが、司祭叙階一年前に私の父が心不全で亡くなりました。67歳でした。その当時、私は神学科4年生で、司祭叙階まであと一年という段階でした。東京の瀬田にあるアントニオ神学院で学んでいましたが、父の具合が悪くなったのは、1983年10月28日の午前八時くらいで、亡くなったのは同じ日の午前10時50分でした。とても短い時間での死でした。

 その日の夕方、ブラザーの叔父とともに葬儀のため郷里の長崎へ行きましたが、父が亡くなったことはまだ信じられませんでした。長崎空港から松浦市まで車で約2時間の道のりですが、家に到着し、父の顔を見た時は何だか眠っているようでした。でも父の額に触ってみた時、とても冷たくて、「あー、確かに父は亡くなったのだなあ」と実感しました。

 主イエスは昇天していきますが、天に上げられる前に、「全世界に行き、造られたすべてのものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16・15)と語ります。イエスは、地上から離れていきますが、悲しい時、辛い時にも、みことばを宣べ伝える使命を、イエスは私たちに託していきます。私たちの力だけでは不十分ですが、イエスは聖霊を約束していきます。その助けによって私たちはまた、勇気をもって宣教に専念できるのではないでしょうか。


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