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留まるという種 復活節第5主日(ヨハネ15・1〜8)

 私の修道院の近くには、幼稚園や小学校そして中学校があって、お父さんやお母さんと一緒に手を繋いで登園や登校をしている子どもたちを目にします。さすがに、高学年の小学生や中学生は手を繋いでいませんが、低学年の小学生は、親御さんたちと手を繋いで歩いています。そのような彼らの様子を見ると、とても安らぎを感じることがあります。

 きょうのみことばは、最後の晩餐の中でイエス様が弟子たちに「わたしはまことのぶどうの木である」と話された場面です。このみことばの中には、【つながる】とか、【留まる】という言葉が何度も出てくることに気づかされます。イエス様は、「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は栽培者である。わたしにつながれていて、実を結ばない枝はすべて、父がこれを切り取られる。しかし、実を結ぶものはすべて、もっと豊かに実を結ぶように、父がきれいに刈り込んでくださる」と言われます。イエス様は、まずここで【つながれていて】「実を結ばない枝」と「実を結ぶ枝」とを話されます。この二つの枝は、ぶどうの木であるイエス様に【つながって】いるのですが、「実を結ばないか」「実を結ぶか」ということで、栽培者であるおん父に「切り取られるか」「きれいに刈り込まれるか」と大きな違いが出てきます。他の箇所でもイエス様は、「わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできない」(15・4)とか、「わたしのうちに留まっていない人があれば」(15・6)とあります。

 きょうのみことばの中でまことのぶどうの木であるイエス様に【つながっていない枝】と【つながっている枝】は、対照的に表され、それによって【実】をつけるかつけないかの違いも出てきます。始めに喩えられた【枝】は、どちらとも【ぶどうの木】につながっているのですが、【実】をつけていない枝かつけている枝とが分かれています。この中で【実】とは、私たちに与えられたそれぞれの「召命(使命)」の【実り】であり、【愛の行い】ではないでしょうか。私たちは、おん父からその人にあった「召命(使命)」をいただき、【まことのぶどうの木】であるイエス様から【愛】という養分を注がれて生かされています。もちろん私たちは、個人の能力や性格また、罪への傾きもありますからうまく【実】をつけることができない場合もあります。しかし、ここでイエス様が言われている「実をつけない枝」というのは、最初から【実】をつけることを【拒絶】している【枝】のことを指しているのではないでしょうか。イエス様は、そのような枝はおん父によって切り取られると言われているのです。

 イエス様は、「わたしのうちに留まっていなさい。そうすれば、わたしもあなた方のうちに留まる」と言われます。この【留まる】というのは、ただ単に「つながっている」という表面的な意味ではなく、「お互いが強い絆で深く、しっかりとつながり、食い込んでいる」という意味のようです。ですから、一方的に私たちの方がイエス様に「留まる」というのではなく、イエス様も私たちの中の【奥深く】まで「留まって」おられるのです。私たちは、このような素晴らしいイエス様の【アガペの愛】によって生かされているのです。しかし、その【アガペの愛】を拒絶する人は、残念ながら実を結ぶことができないばかりか、刈り取られ、外に投げ捨てられ、火に投げ入れられて燃やされてしまいます。そこには、【アガペの愛】はありませんし、孤独であり、争いや怒りに満ち、利己心や不和や仲間割れが起こってきます。パウロは、このような【アガペの愛】を拒む行いを【肉の業】と伝えています(ガラテヤ5・19〜21)。

 イエス様は、「わたしはぶどうの木であり、あなた方は枝である。人がわたしのうちに留まっており、わたしもその人のうちに留まっているなら、その人も実を結ぶ」と言われます。パウロは、この【実】を【霊の結ぶ実】と言って「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、柔和、誠実」(ガラテヤ5・22)と私たちに教えてくださっています。このパウロの教えは、私たちが日常の生活の中で意識すし、イエス様の恵みによって行うおことができるのです。ですから私たちは、頑張って「豊かな実をつける枝にならなければ」と気負わなくてもいいのです。私たちがイエス様からの【愛の養分】を十分に頂いている時、私たちはパウロが言う【霊の結ぶ実】を豊かに実らせることができるのではないでしょうか。

 私たちは、自分の弱さによって罪を犯してしまいます。イエス様の身近に生きていた弟子たちでさえも、イエス様を置いて逃げてしまいました。しかし、復活されたイエス様は、そんな弟子たちに愛を持って包まれます。イエス様は、「わたしが話した言葉によって、あなた方はすでに清くされている」「わたしの言葉が、あなた方のうちに留まっているなら、望むものを何でも願いなさい。そうすれば、かなえられる」と言われます。私たちは、みことばによって清くされ、さらにそのみことばを生きようとするとき、イエス様は、私たちの願いをすべて聞いてくださると、お約束してくださいます。私たちは、【まことのぶどうの木】であるイエス様に留まっている枝として、豊かな実を結ぶことができるように祈り、歩んでいくことができたらいいですね。


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