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「ぶどうの木」復活節第5主日(ヨハネ15・1~8)

 東京都内で「ぶどうの実」や「ぶどう酒」を目にすることがあっても、「ぶどうの木」そのものを目にすることが、だんだん難しくなってきました。たくさんのぶどうの木を見たいと思えば、山梨県の勝沼辺りまで、特急列車で1時間半くらいかけて行かないと見ることができません。修道院の近くで植木をやっているおじさんがいますが、盆栽や花はあっても、ぶどうの木までは手が届かないようです。

 小学生の頃、父がぶどうを栽培していました。春休みや夏休みになると、朝から夕方まで、ぶどう畑に駆り出されたものです。春休みの時は、ぶどうの木の周りに鶏糞をまくのが私たちの仕事でした。けっこう臭いが服に染みついて、服を着替えずに教会学校へそのまま行くと、友人たちから「クサイ」と言われたものです。ぶどうの収穫は八月中旬くらいから始まり、それが終わると、ぶどうの木の剪定作業に入ります。父はさすがにこの仕事をさせてくれませんでした。剪定の仕方によって、翌年のぶどうの収穫が変わってくるからです。もっぱら剪定して切られた枝集めの作業が、私の仕事でした。

その後、枝を家に持ち帰り、今は懐かしい「五右衛門風呂」の風呂炊きにしましたが、これがなかなか燃えません。おまけにぶどうの枝は形が一定ではないので、燃やすのに一苦労。その点で、ブドウの枝の剪定もそうですが、同時に切られた枝も非常にやっかいだなあと、子ども心に思ったことがあります。

 今日のみことばで、枝が幹に結ばれていることの大切さが語られます。両方がつながっていることで、枝は幹から栄養を補給していきます。今日の箇所で「留まる」と訳されているギリシア語原文では「メノー」が使われています。そこには、「つながる」という意味も含まれています。幹であるイエスと枝である私たちがどのようにつながっているかを問いかけてくれます。同時に私たちがイエスに留まり、つながっていれば「やっかい者扱い」されることもないでしょう。


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