証人となるという種 復活節第3主日(ルカ24・35〜48)
きょうのミサの「集会祈願」に「あなたに呼ばれ、一つの民とされたわたしたちをみことばによって強め、主の復活をあかしする者としてください」とあります。この言葉は、私たちが信仰生活を送るための一つの指針となっているのではないでしょうか。
きょうのみことばは、復活されたイエス様が弟子たちにお会いになる場面です。エマオに向かう途中でイエス様に出会った2人の弟子は、仲間がいるエルサレムに引き返し、自分たちがイエス様に出会ったことを話します。ちょうどその時イエス様は、弟子たちの真ん中に立たれ「あなた方に平和があるように」と言われます。この場面は、ヨハネ福音書でイエス様が弟子たちの前にお現れになった時と共通していて(ヨハネ20・19以下)、教会の一つのシンボルと言ってもいいのかも知れません。イエス様は、教会共同体の中心にいつもおられ、その教会の平和を望んでおられます。私たち一人ひとりの心の中が平和な時、その【平和】は、周りの人にも広がっていくのではないでしょうか。
弟子たちは、今話していたイエス様が自分たちの所に来られたことに「驚き恐れ、幽霊を見ているのだ」と思います。彼らは、先にイエス様と出会った弟子たちの話、ペトロにも現れた(ルカ24・34)話がまだ信じられないでいたのでした。弟子たちの頭の中では、「イエス様が、3日前に十字架上で亡くなられ、確かに墓に葬られたはずである」と思っていたでしょうし、まさか、そのイエス様が現れるなんてそんなことは、あるはずがない幽霊が何かではないか、と思っていたのではないでしょうか。
イエス様は、実際にご自分を見てもなお、信じることができない弟子たちに「なぜ怯えているのか。どうして心に疑いを抱くのか」と言われます。弟子たちは、イエス様に会ったという喜びよりも先に、あまりにも恐れの方が増し信じられなかったのです。イエス様は続けて「わたしの手と足を見なさい。まさしくわたし自身である」と言われます。ヨハネ福音書にも、イエス様がトマスに「わたしの手を調べなさい。あなたの手を伸ばして、わたしの脇腹を調べなさい」(ヨハネ20・27)と記されています。この二つの箇所に共通していることは、信じることができない弟子たちにご自分が復活したということを【信じる】ために示されたということです。イエス様の傷は、ただの【傷】ではなく、私たち一人ひとりの「罪の結果」と言ってもいいのかも知れません。弟子たちは、その傷を見て自分たちがイエス様を裏切って逃げたことを思い出したことでしょう。イエス様は、私たちの罪を贖われた印として、手と足の傷をお見せになられたのではないでしょうか。
弟子たちは、ようやく恐れから喜びに変わりますが、それでも信じられず不思議に思っていました。このことは、私たちの中でも言えるのではないでしょうか。あまりにもショックなことで信じられないこと、たとえば、元気だった人が急に亡くなった時は「えっ、あんなに元気な人が亡くなるなんて」と思われるでしょうし、反対に自分が憧れている俳優や歌手が自分の目の前に現れた時「ウソ、信じられない」と思ったりするのではないでしょうか。弟子たちは、まさに喜びのあまり信じられなかったのです。
イエス様は、弟子たちに「まだ、あなた方とともにいたころに話したとおり、……すべて成就されねばならない」と言われます。イエス様は、ご自分がどのような形で「受難と死そして復活」をされるかということを弟子たちに話され、変容されることで復活後の姿を示されています。イエス様が言われる「あなた方と共にいたころ話したとおり……」というのは、このことを想起させ復活したイエス様と出会ったということを弟子たちに信じさせるためではないでしょうか。
さらにイエス様は、聖書を悟らせるために彼らの心を開かれて「……『メシアは苦しみを受け、3日目に死者の中から復活し、その名によって罪の赦しへ導く悔い改めが、エルサレムから始まり、すべての民に宣べ伝えられる』。あなた方はこれらのことの証人である」と言われます。イエス様は、まず私たちがみことばを理解するのではなく、【悟る】ためにご自身の恵みによって私たちの心を開いてくださいます。さらにそれだけではなく、イエス様が復活され、私たちの罪を贖われたという【罪の赦しへと導く悔い改め】がエルサレムから始まり、すべての民に宣べ伝えられることを約束されたのです。これこそ、復活の神秘であり、おん父のご計画であり、そして【アガペの愛】ではないでしょうか。
私たちは、信仰生活を送る中でイエス様の「平和」を味わい、罪深い私たちを赦してくださるイエス様の愛で生かされているのではないでしょうか。私たちは、犯した罪のために絶望し暗闇のどん底の状態の時に「あなたの罪を赦します」と言われるイエス様の声にどれほど救われたことでしょう。イエス様は、「あなたが体験したその喜びこそが、私が復活したという『証人』なのですよ」と言われているのではないでしょうか。私たちは、日々の生活の中でイエス様が「まことに復活された」ということの【証人】となることができたらいいですね。
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