見るという種 復活の主日(ヨハネ20・1〜10)
御復活おめでとうございます。復活の場面は、四福音書を通していくつかの共通点があります。それは、「週の初め(安息日が明けて)」「マグダラのマリア(女性たち)」「石」「空の墓」「天使」が出てくることです。多少の表し方が違うところはありますが、イエス様の復活を現した箇所には、このような単語が出てきています。復活の主日のみことばは、ヨハネ20・1〜10となっていますが、他の並行箇所と読み比べると違いを味わうことができると思います。
きょうのみことばは、ペトロとイエス様が愛しておられたもう一人の弟子(ヨハネ)が、「誰かが主を取り去りました」というマグダラのマリアの知らせを受けて、イエス様が葬られた墓へ行くという場面です。みことばは、「週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行き、墓から石が取り除かれているのを見た。」ということで始まっています。もうこの1節の中に上の単語がいくつも出てきています。「週の初めの日」というのは、安息日が明けた日で、今で言う「日曜日」ということになります。すでに福音書が書かれたときのキリスト者は、ユダヤ人たちが大切にしていた「安息日(土曜日)」よりも、日曜日を【主の日】として大切な記念日としていたのではないでしょうか。
マグダラのマリア(何人かの女性たち)は、1日でも早くイエス様が葬られた墓に行きたかったのでしょうが、安息日があったため行くことができませんでした。それで、彼女(たち)は、安息日が明けると直ぐに墓に出かけます。マルコ福音書とルカ福音書には、香油を持ってという言葉がありますので、イエス様に香油を塗るという深い愛情があったのでしょう。しかし、彼女(たち)には墓を塞いでいる「石」を取り除くという問題がありました。マルコ福音書では「墓の入り口からあの石を転がしてくれる人が、誰かいるでしょうか」(マルコ16・3)と心配していま、マタイ福音書では「主の使いが天から降って石に近づき、石を脇へ転がして、その上に座ったからである。」(マタイ28・2)とあります。この【石】は、「死者の世界」との境界線を表しているようですが、イエス様が「死(闇)」からの「復活(勝利)」を表しているのではないでしょか。そして、この【石】は、神様の力がなくては取り除くことができない、私たちの「悪への傾き(罪)」を表していると言ってもいいのかもしれません。
マグダラのマリアから知らせを受けた2人の弟子たちは、走って墓に向かいます。ヨハネの方がペトロよりも若かったのでしょう、彼はペトロより先に墓に着きます。しかし、墓には入らず外から亜麻布が平らになっているのを見るだけでした。続いてペトロが墓に来て中に入ってよく見ると、平らになった亜麻布とイエス様の頭を包んだ布切れが平らにならずに、元の所に巻いたままになっていました。ヨハネ福音書の復活の場面は、この【平らになった亜麻布】と【頭を巻いた布切れ】がイエス様の復活を表している特徴と言ってもいいのではないでしょうか。イエス様は、まるで空気のように、または、光のように亜麻布や頭を包んだ布切れを何の問題なく通り抜けられたのです。これは、まさに【神秘】としかいうことができません。
ペトロが空の墓を確認した後に、ヨハネは墓に入ってきて見て、信じます。ヨハネ福音書の復活の場面のもう一つの特徴というのは、【見る】という単語です。みことばの「見る」という言葉の中には、景色を見るように漠然と「見る」という意味、しっかりと観察するような「見る」という意味、そして実際には、目に見えないのですが心の目で「見る」という意味が含まれているようです。マグダラのマリアが空の墓を見た、ヨハネが墓について見えたというのは、ただ、漠然と「見る」として用いられ、次にペトロが中に入って「よく見ると」というのは、観察するような「見る」であり、そして最後にヨハネが「見て、信じた」というのが「心の目」、信仰を通して「見る」というように区別されて使われているようです。ヨハネは、墓にある2つの「布」の状態を見てイエス様が「復活された」ということを信仰の目で見て【信じる】ことができたのです。
きょうのみことばにはありませんが、弟子たちが帰った後に残ったマグダラのマリアは、イエス様に会うことができます。彼女は、「イエス様がまだ誰かから盗まれた」と思っていたようです。彼女は泣きながら、墓の中をのぞき込むと、2人のみ使いが座っているのを見ます。マリアは、み使いたちの「なぜ、泣いているのか」という問いに、「誰かがわたしの主を取り去りました。」と答えます。彼女はそう言って後ろを振り向いたときにイエス様を見るのですが、園の番人と勘違いします。イエス様は、そんな彼女に「マリア」と声をかけられます。みことばは、「マリアは振り返って、……」とあり、彼女は、しっかりとイエス様を見たのでした。
私たちは、それぞれに復活されたイエス様との「出会い」を望んでいることでしょう。私たちは、ヨハネやマグダラのマリアが心の目、信仰の目で【見て】復活されたイエス様を信じ、出会ったように、三位一体の神様に信頼して「信仰の目で見ることができますように」と祈ることができたらいいですね。
0コメント