見て、信じる 主の復活(ヨハネ20・1~9)
イエスが埋葬されたはずの墓に、イエスの遺体がないことに一番最初に気づくのはマグダラのマリアです。本来なら、イエスに長い間仕えてきた弟子たちでもおかしくないのですが…。彼女のほうがイエスのことについて、いかに心配していたかが分かります。「誰かが主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わたしたちには分かりません」(ヨハネ20・2)ということばがそれを暗示します。イエスと同様に、自分たちも逮捕されるのではないかとおびえていた弟子たちとは対照的に、マグダラのマリアの堂々とした勇気が感じられます。
2015年3月17日に「信徒発見150周年」を祝いましたが、この出来事に貢献したのは浦上の信徒十数名でした。「七代たてばローマのパーパ(教皇)様から送られたパードレ(神父)がやってくる」という古くからの伝承が代々伝えられ、彼らもまた、希望をもって待っていました。その中でも杉本ユリは勇気をもって、プティジャン神父に自分たちも同じ信仰であることを告白します。彼女はこの告白の際、間違っていれば殉教してもよいような覚悟をしていたことでしょう。
さて今日の場面で、マグダラのマリアから話を聞いたペトロとヨハネは、墓へ向かっていきます。若いヨハネが先に着きますが、先輩のペトロを待ってから墓に入ります。優先権がペトロにあるのでしょう。亜麻布が平らになっていることなど、実に緻密な描き方です。すなわち「墓の中に入ってみると、亜麻布が平らになっており、イエスの頭を包んでいた布切れが、亜麻布と一緒に平らにはなっておらず、元の所に巻いたままになっていた」(ヨハネ20・6~7)と。具体的な描写が続き、それによって空想ではないことがよく理解できます。
墓に着き、「見て、信じた」と言います。実際に自分の目で見て、確実に信じていくところに一つの豊かさが見えてきます。「信徒発見」での杉本ユリも、プティジャン神父を見て、確信したように…。主の復活と「信徒発見」の出来事に、再生への歩みを感じます。
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