一粒の麦という種 四旬節第5主日(ヨハネ12・20〜33)
私たちの食事は、パンを食べる人もおられますが、ご飯を食べる人も多いのではないでしょうか。だいぶ前になりますが、秋になり田んぼの稲穂が黄金色になって実っている風景を見て感動したことがあります。日本では、麦畑はあまりなじみがありませんが、やはり麦が実っているのも感動するのでしょうね。
きょうのみことばは、イエス様がご自分の死について「一粒の麦」に喩えられている場面です。聖歌にもなっている箇所なので、身近に感じる方もおられるのではないでしょうか。異邦人であるギリシア人たちがイエス様に会いたいと、フィリポの所に行きます。弟子たちは、このギリシア人をイエス様に取り次いだのでしょう。イエス様は、彼らに「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われます。もちろん、この「栄光を受ける時」というのは、イエス様が十字架上での「死と復活」を意味しているようです。なぜ、イエス様はギリシア人たちがご自分の所に来たときにこのように言われたのでしょうか。それは、イエス様が「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もある。わたしは、その羊たちをも導かなければならない。こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる。再びそれを得るために、わたしは自分の命を捨てる。」(ヨハネ10・16〜17)と言われておられ、全ての人の救いを願われたからでしょう。イエス様は、「囲いに入っていない羊」である、ギリシア人(異邦人)がご自分の所に来たことで、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われたようです。
イエス様は、ご自分が栄光を受けるということを【一粒の麦】にあわせて「もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。しかし、死ねば、豊かな実を結ぶ」と言われます。このことを聞いたイエス様の周りの人は、どのように思ったでしょうか。麦は彼らにとって自分たちの主食であるパンを作る大切な穀物です。イエス様は、ご自分がまず「一粒の麦」のように死ぬことで、多くの実りとなり人々に命を与えるということを伝えておられるのではないでしょうか。
イエス様は、「この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。」と言われます。この言葉は、私たちにとても厳しく響いてきます。「自分の命を憎む者」というは、その次の節にある「わたしに仕えようとする者」という意味ではないでしょうか。イエス様は、ご自分よりも自分の命を愛する者、自分だけの生き方に固執する者ではなく、わたしに仕えようと思う者は、人のために目を向けてください、と言われているのかもしれません。
洗礼の恵みを受けた私たちは、イエス様に仕えるという使命をいただいています。それは、私たちの召命にも繋がっていると言ってもいいのかもしれません。親が家族のために働き子育てをすること、教師が生徒たちに生きる糧を示すこと、医療従事者が人々の健康や命に関わることなど、私たち一人ひとりに与えられた日々の奉仕の中でイエス様を思うとき、それは、「イエス様に仕える」ということではないでしょうか。おん父は、ご自分の子であるイエス様に仕える人のことを大切にしないわけはありません。おん父は、私たち一人ひとりのことを愛され、豊かな恵みをくださることでしょう。
イエス様は、「今、わたしの心はかき乱されている。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。いや、この時のためにこそ、わたしは来たのである。父よ、み名の栄光を現してください。」と言われます。この箇所は、イエス様がご自分の【死】を前にしておん父に祈られた「ゲッセマネ」での祈りを想起させます。イエス様は、ご自分の心がかき乱されるほど、悲しみ悶えるほど(マタイ26・37)、悲しみのあまり、死ぬほど(マタイ26・38、マルコ14・34)苦しまれ、できることなら【この時(盃)】から救ってください、という人としてのイエス様の苦しみをおん父に祈っておられます。それでも、イエス様は、「この時のためにこそ、わたしは来たのである」というおん父のみ旨を忠実に果たそうという祈りに変わられます。私たちは、このように苦しまれたイエス様の【愛】によって、今を生かされているのではないでしょうか。
この祈りを受けて、「わたしはすでに栄光を現したが再び栄光を現そう」というおん父の声が聞こえてきます。それは、雷のように、または、天使たちの声のように人々に響きます。ここで言われる最初の【栄光】は、イエス様の受肉と十字架上での死と復活を現し、後半の【栄光】は、私たち一人ひとりのことを現しているようです。おん父は、イエス様に仕える私たちが周りの人に奉仕し、イエス様の復活を証しし、自分の命をおん父にお捧げすることで【栄光】を与えられると言われているのではないでしょうか。
イエス様は、「すべての人をわたしのもとに引き寄せる」と言われます。私たちは、【一粒の麦】となられたイエス様に【仕える者】となり、おん父からの【栄光】を受けた時、イエス様の愛によって永遠の愛の宴に「引き寄せられる」と言ってもいいでしょう。四旬節も終わりに近づいてき、改めてイエス様の「死と復活」を味あことができたらいいですね。
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