信じるという種 四旬節第4主日(ヨハネ3・14〜21)

 四旬節中の『教会の祈り』の「始めの祈り」の交唱は、「今日神の声を聞くなら、神に心を閉じてはならない」と唱えます。神様は、いつも私たちと共におられ、私たちを導いてくださっています。この「神に心を閉じてはならない」というのは、「神様を信じる。神様の方に心を向ける」という意味も含まれているのではないでしょうか。改めて、この交唱を唱えながら私たちの行いを振り返ってみることができたらいいですね。

 きょうのみことばは、ユダヤ人たちの議員でファリサイ派のニコデモがイエス様の所に質問に来た時の会話の後半部分です。きょうのみことばでイエス様は、【信じる】という言葉が5回使われます。では、イエス様は何を【信じる】のかと言われているのでしょうか。きょうのみことばの少し前に「わたしが地上のことを話しても、あなた方は信じないのであれば、わたしがあなた方に、天上のことを話したところで、どうして信じられるだろうか。……モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。」とあります。イエス様は、ご自分がこの世に来たのは、おん父によって人々を救いに来たということを「信じなさい」と言われているのではいないでしょうか。

 イエス様は、モーセがイスラエルの人々をエジプトから脱出する際に、神とモーセに逆らった人々を、神が蛇を使って殺したことを想起させます。イエス様は、その時に、おん父が「火の蛇を造り、それを旗竿の上に掲げよ。咬まれた者はみな、それを仰ぎ見れば、生きる」(民数記21・4〜9)と言われて人々が救われたように、十字架につけられたご自分を仰ぎ見た人が救われるということを言われているようです。イスラエルの人々は、モーセの言葉を信じて、旗竿に上げられた蛇を見て【死】から救われました。イエス様は、私たちに「あなたたちが苦しいとき、罪に苛まれているときには、私の方を見なさい。」と言われているのかもしれません。

 イエス様は、「神は独り子を与えるほど、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである。」と言われます。イエス様は、おん父が「この世を愛された」と言われます。ヨハネ福音書の始めの方に「み言葉はこの世にあった。この世はみ言葉によってできたが、この世はみ言葉を認めなかった。」(ヨハネ1・10)とありますように、【この世】とは、おん父を認めず罪の状態であり、敵対する人々を指しているようです。しかし、イエス様は、おん父に逆らって罪を犯した【この世】に対して独り子であるご自分を遣わし、【永遠の命】を与えてくださるほどおん父が愛されておられる、と言われています。ただし、条件として「独り子を【信じる】」ということがあります。ここにおん父の溢れるばかりのアガペの【愛】があります。

 イエス様は、続けて「神が御子をこの世にお遣わしになったのは、この世を裁くのではなく、御子によって、この世が救われるためである。」と言われます。私たちは、罪を犯したときに負い目を感じ「あっ、叱られる」と思ってしまいます。しかし、イエス様は、そうではなく「ご自分の方に心を向けた人は、全て救われます」と言われているようです。私たち一人ひとりは、おん父の愛によって生まれているのに、そのおん父が、どうして私たちを裁かれるでしょうか。どうして私たちが罪によって苦しみ、死に至ることを望まれるでしょうか。

 さて、イエス様は、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。」と言われます。この「信じない者」というのは、イエス様を認めない【この世】のことを指しているのではないでしょうか。イエス様は、おん父によって遣わされたご自分を信じない者、拒絶する者に対しても同じように愛を注いで救おうとなされておられますが、悲しいことにその【愛】を受け入れない人たちがいます。彼らは、自分で自分を裁いているだけではなく、自分が正しいと思っているようですから、あえてイエス様の愛を必要としていないのです。さらに、彼らは、自分の正しさを周りの人にまで強要し、自分の意見に反対する人までも裁いてしまう傾きを持っています。本当に残念なことですが、そこには【愛】が存在していません。ある神父様が「罪とは愛の欠如なのです」と言われていましたが、まさにその通りだと思います。

 イエス様は、ご自分を【光】とされ、悪を【闇】として表されます。イエス様を信じない人たちは、彼らにとって居心地が良い【闇】の方を好み、光であるイエス様を拒み、自分自身を裁いていることすら気づいていません。イエス様は、「真理を行う者は、光の方に来る。その行いが神のうちにあってなされたことが、明らかにされるためである」と言われます。私たちは、三位一体の神の声を聞き、善を行うとき、それは【私】がしたのではなく、私の中の【神】がしてくださったのではないでしょうか。私たちは、自分たちが三位一体の神を【信じる】と思ってしまうかもしれませんが、神様が私たちを【信じる】ようにお恵みをくださっているのかもしれません。これから主の復活を迎えるにあたって、神の声を聞き、光であるイエス様に心を向けることができたらいいですね。