福者ティモテオ・ジャッカルドの取り次ぎによる奇跡――福者ジャッカルド神父の生涯(終)
シスター・マリア・ルチアーナ・ラッザリーニの全快
シスター・マリア・ルチアーナ・ラッザリニは、1928年7月7日に、クオネ県のプラッツォ(Prazzo)に生まれた。1943 年、北イタリアアルバの師イエズス修道女会母院に入会した。この年から初誓願までの4年間、ティモテオ神父から人間としての、キリスト信者としての、修道女としての、パウロの弟子としての教育を受けた。以来、創立者と恩師ティモテオ神父への思い出は修道生活の支えとなり、励みともなった。
1947年5月24日に同母院で初誓願を宣立し、ティモテオ神父により、修道名をマリア・ルチアーナと命名された。1950年の春、肺疾患のため、クネオ県サンフレ(Sanfre)にある聖パウロ会診療所で治療を受けた。その後、アルバやカターニャの修道院で働いたが、日本へ宣教女として派遣されることを願い出て、受け入れられた。そして、1952年4月5日、シスター・マリア・ピアと一緒に、東京・四谷に着いた。
これより1年前の1951年5月に、師イエズス修道女会は2人のシスターを派遣し、東京・四谷の若葉修道院で、シスター・イラリア・ヴァイオを中心に使徒職活動を開始していた。シスター・ルチアーナは、来日後数ヵ月間、東京・六本木の日本語学校に通ったが、言語・習慣・食べ物・気候・風土の著しく違う戦後の貧しい日本、政情不安定な異文化の社会になじむのは、並大抵のことではなかった。もともと体が丈夫でない上に、こうしたストレスが重なって肺疾患が再発し、転地療養のために福岡へ3か月ほど出かけ、できるだけの治療を受けた。それでも容態は悪化し、1952年11月に若葉修道院に戻り、絶対安静を保っていた。こうして、少し良くなったり、悪くなったりの日々を繰り返していた。
1953年4月、創立者アルベリオーネ神父と総長マリア・ルチア・リッチが訪日した際に、埼玉県川口市に修練院設置が決定された。聖パウロ会が東京・四谷で始めた「文化放送」の電波中継地になっていた。修練院に当てられたのは、旧日本軍の木造兵舎で、傷みがひどく、大雨の時は雨漏りしていた。その周りは一面畑であった。シスター・ルチアーナは、1953年5月、シスター・ピア(院長)とシスター・ステッラ土居、それに数名の修練女とともに、川口市へ移転した。そこでは、貧しくとも家族的な和やかさの中で、信心生活に加えて、勉強、畑仕事、家畜類の飼育、裁縫などが行われていた。ちなみに、前述の若葉修道院では、1954年に、シスター・アンチッラ・ベレッソが院長に就任した。
シスター・ルチアーナは、川口市へ来てしばらくして食欲がなくなり、体もだるくて、いつも微熱があった。そこで、川口市の済生会病院の木沢 和医師に診てもらった。始めは休養が必要という診断だけで、これといった治療も受けていなかった。そして、休んでいる時以外は、縫い物を手伝ったり、シスター・土居と一緒に翻訳したり、若い姉妹たちに一週一度の講義をしたりしていた。そのうちに、レントゲン検査で左肺の空洞が広がりつつあることが確認され、ストレプトマイシンやパスの注射が試みられた。
その後、自宅療養では共住者に感染する危険も生じたので、1954年2月の初めに済生会病院に入院し、左肺に「気胸」という治療を受けた。当時院長マリア・ピアは、食糧難の時代にもかかわらず、アメリカの進駐軍からもらった缶詰に加えて、高価なバナナを購入し、この入院患者に与えた。その後、毎週一度の通院に切り替えたが、効果はなく、かえって悪化してしまった。
その三ヵ月後、済生会病院の木沢医師は気胸療法の代わりに肺の手術をすることを考えたが、しかし手術は肋骨を摘出して胸郭成形をしなければならない。シスター・ルチアーナの場合、栄養状態は悪いし、右肺までも悪くなり、肺活量がまったく足りないので、成功の確率は低かった。おまけに梅雨の季節も近づいている。それで、木沢医師はイタリアへの帰国を勧めた。
シスター・ルチアーナは非常に苦しんで、故国へ帰るくらいなら、日本人のために生涯をささげるほうがましだと思い、日本の土になる覚悟をした。他の宣教女も彼女の決意に理解を示し、生き延びるための最後の希望を、ティモテオ神父の取り次ぎに託した。
取り次ぎを願う 1955年7月7日、ちょうどシスター・ルチアーナの26歳の誕生日に、院長マリア・ピア・キャヴァッサは、四谷の修道院で、東京・三鷹台の土地と家屋を購入するための契約を結んだ。そこを師イエズス修道女会の日本・本部修道院とし、その一部を修練院に予定していた。実際、それから三か月後に、若葉・川口両院が三鷹台に移転した。その契約の時、院長は霊感を受けて、数名のシスターたちに次のように言った。「修道院を手に入れた今になって、いちばん若いシスター・ルチアーナが帰国しなければならないとは! 帰国させないようにしましょう。シニョール・マエストロ(ティモテオ神父)の取り次ぎによる病気回復を願いましょう。もし回復したら、養成と志願者募集の仕事をしていただきましょう」。
その日の午後3時ごろ、シスター・マリア・ピアは川口の修道院に戻るやいなや、シスター・ルチアーナの部屋に入り、病床でぐったりしている彼女に、厳しい口調でこう言ったのである。「シスター・ルチアーナ、イタリアへ帰る必要はありません! すぐ起きて、聖堂へ行って、シニョール・マエストロの代願で神様に奇跡をお願いしなさい! 明日の朝(7月8日)のミサは、この意向でささげていただくことにしましょう……」と。
「ほんとうだったら、うれしいわ……」と、シスター・ルチアーナは答えた。「何言ってるのよ。ほんとうだったららって? 疑ってはいけませんよ。信仰をもってシニョール・マエストロに奇跡を求めなさい」と、院長はきつく言った。
シスター・ルチアーナは、その言葉に励まされ、やっとベッドから起き上がり、聖堂へ行って畳の上にひざまずき、ご聖体の前で次のように祈った。「イエス様、私は病気の回復を求めませんでした。み旨のままに、司祭のため、召命のため、日本の師イエズス修道女会発展のために苦しめば、それでよいのです。それでも長上の命令には従わざるを得ません。あなたにも従います。シニョール・マエストロの取り次ぎによって、私の病気を治してください!」と。その時は、この祈りが必ず聞き入れられると信じた。
その日の夕方、院長は皆に向かって、「これから9日間、毎日、ある特別な意向のために『主の祈り』『天使祝詞』『栄唱』を唱えなさい」と伝えた。しかし、具体的な目的は皆にも、翌朝のミサの司式司祭(聖パウロ会の故キエザ神父)にも知らされなかった。
不思議な全快 9日間の最初の日(7月8日)のミサ後、シスター・ルチアーナは、シスター・土居に付き添われて、済生会病院へレントゲン写真を撮りに行く準備をした。院長はいつものように修道院の門まで見送ったが、その時、いつになく厳しい命令調でこう言った。「シスター・ルチアーナ、治って戻ってきなさい! その信念で行きなさい!」と。レントゲン写真を撮ってから3日目(7月10日)の午後3時ごろ、皆が畑仕事に専念している最中であった。済生会病院からの電話ということで、まだ日本語がよく話せない院長に代わって、シスター・土居が駆けつけて受話器を取った。木沢医師の声であった。このシスターは、その時の電話の内容を、こう証言している。
「『シスター、まったく不思議です。レントゲンには何の影もなく、まったく正常です。これでは、シスター・ルチアーナさんはイタリアに帰る必要も、手術の必要もありません。何と説明してよいか、私自身わかりません……』
私は皆のところへ一目散に走り出し、『奇跡! 奇跡!』と叫びながら、院長と一緒にシスター・ルチアーナのところへ駆けつけました。『ルチアーナ、起きなさい!治ったのですよ! 聖堂へ行って神に感謝しなさい!』と、院長の声は弾んでいました」。
シスター・ルチアーナは、すぐに枕の下からティモテオ神父のご絵を取り出しこれを眺めるうちに、心の底から「シニョール・マエストロはほんとうに聖人だったのだ」という思いが込み上げ、夢中になってこれに接吻し、喜びのあまり泣き出して、こう言った。「シニョール・マエストロ、ありがとうございます! これで日本は、再び私のものになりました! これから、もっと一生懸命働きます!」と。
奇跡の立会人、木沢医師(星美学園短期大学教授)はこう語っている。
「1954年7月8日に、シスター・ルチアーナから、“病気が治ったかどうか確かめるために、レントゲン写真を撮ってくれ“という以来がありました。僕は何も期待していませんでした。三日後、レントゲン技師から届いた写真には、空洞が一つもないのですよ。それで『これはルチアーナさんの写真じゃないぞ』と言ったら、助手が『レントゲン技師にもう一度確かめてもらいます』と言って、聞きに行ったのです。そうしたら、その技師がやって来て、『今、撮ったんだから間違いないでしょう』と念を押しました。見直しても、空洞は見つからなかったですね。レントゲン写真はいつも見ていたので、見間違えることはありません。あの当時、肺結核という病気は、今の『ガン』と同じで、生き延びる可能性は非常に少なかったですね……」。
シスター・ルチアーナは、奇跡的な全快以来、今日(平成5年)まで何らの後遺症もなく、38年間健康体で、日本の後輩の修道女たちに師イエズス修道女会のカリスマを伝え続けているが、著者の最近のインタビューに答えて、こう語っている。「聖書には『どんな願いごとであれ、あなた方のうち2人または3人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである』(マタイ18,19-20)とありますが、ティモテオ神父様の取り次ぎを願って当時の師イエズス修道女会のシスターたちは、まさに聖書の言葉どおりに、心を一つにして祈り、働いていました。皆のお蔭で私にお恵みが与えられたのだと、信じています」と。
- 池田敏雄『マスコミの使徒 福者ジャッカルド神父』1993年
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。
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