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彼に聞けという種 四旬節第2主日(マルコ9・2〜10)

 私たちは、どこか初めてのところに行くために道標があると容易に目的に辿り着くことができます。私たちの最終の目的地は、おん父と共に永遠の栄光に入ることではないでしょうか。その道標としてイエス様がおられ、おん父は、私たちに「彼に聞け」ときょうのみことばで言われているようです。

 きょうのみことばは、イエス様が弟子たちの前で姿が変わられた【変容】の場面です。みことばは、「そして6日後、イエスはペトロとヤコブとヨハネを連れて、高い山にお登りになった。」という言葉で始まっています。この「6日後」というのは、イエス様が弟子たちに「人の子が多くの苦しみを受け、長老や、祭司長や、律法学者たちに排斥され、殺され、そして3日の後に復活する」(マルコ8・31)と語られた後のことを指しています。弟子たちは、メシアであるイエス様がそのような酷い死に方をするはずがない、ローマやヘロデからの圧政を退け、もっとすばらしい国を建て自分たちを導いてくださる、と思っていました。それで、ペトロが弟子たちを代表として、イエス様をいさめますが、反対にイエス様から「サタンよ、引き下がれ。あなたの思いは、神のものではなく、人間のものである」(マルコ8・33)と叱られます。

 弟子たちは、この約一週間をどのような思いで過ごしたのでしょうか。特に、弟子たちの気持ちを代弁したペトロの落ち込みは、言い表せないほどだったことでしょう。イエス様は、そんな気持ちを察しペトロとヤコブとヨハネを連れて高い山に登られます。イエス様は、みことばの中で大切な場面でこの3人の弟子たちを連れて行かれます。もちろん、この3人は、最初の弟子たちですからイエス様と親しかったと思いますし、他の弟子たちからも一目置かれていたのではないでしょうか。ただ、ここで気になるのは、シモンの兄弟アンデレの名前がないことです。ヨハネ福音書では、「アンデレはシモンをイエスの所に連れて行った」(ヨハネ1・42)とありますように、アンデレがシモンをイエス様に紹介したのに、イエス様はアンデレではなくいつもペトロを連れて行っています。この2人の兄弟の関係は、どのようなものだったのでしょう。個人的ですが、ちょっとアンデレに対して同情いたします。

 さて、イエス様が弟子たちを連れて行った「高い山」というのは、タボル山と言われています。この山は、標高が588メートルあり、お椀を裏返ししたような形で山頂は広く「主の変容の教会」が建てられています。巡礼の際には、山の中腹あたりで大型バスから9人乗りのタクシーに乗り換え、曲がりくねった道を上って行かなければなりません。

 イエス様は、山頂に着くやいなや姿が変わり、衣が真っ白に変わります。みことばには、「その白さはこの世のいかなる布さらしでもなしえないほどのものであった。」とあります。この姿は復活後のイエス様の姿なのではないでしょうか。またそこでは変容されたイエス様だけではなく、エリヤとモーセが現れ、イエス様と何かを語り合われます。マルコ福音書には、何を語ったかは書かれてありませんが、ルカ福音書には「イエスがエルサレムで成し遂げようとしておられる最期について語り合っていた」(ルカ9・31)とあります。

 イエス様は、変容されエリアとモーセと一緒にご自分の最期とそして復活について語られていたのでしょう。弟子たちは、「6日前」にイエス様から「人の子が多くの苦しみを受け、……3日目に復活する」と聞いた時のことを思い出したのではないでしょうか。弟子たちは、今まで見たことがないイエス様の姿やエリアやモーセの姿を目の当たりにして、恐怖に襲われますが、その中でペトロは「先生、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです。3つの仮の庵を作りましょう。……」と言います。弟子たちは、恐れながらもこの【素晴らしい】空間、場所を少しでも保ちたかったのです。私たちの日常の生活の中では、そう度々「神的体験」はありませんが、「あっ、今ここに聖霊が働かれている。イエス様が何かを語っておられる。」というような体験をすることがあるのではないでしょうか。このような空間や時間は、三位一体の主の恵みであって、私たちが自分たちの力で作ることができませんし、そこに留まることもできないのです。

 弟子たちが恐怖に襲われている中、雲が現れて「これはわたしの愛する子。彼に聞け」という声がします。この言葉は、私たちにも言われているのではないでしょうか。私たちは、イエス様が受難の後、復活された喜びを人々に伝える使命をいただいています。しかし、弟子たちが「死者の中から復活するとは何のことだろうか」と論じ合ったように、私たちはまだイエス様の【復活】を理解していません。このような私たちにおん父は「彼に聞け」と言われているのではないでしょうか。私たちは、【復活の神秘】まだ理解できませんが、イエス様に聞き、そして一緒に歩むことで、変容されたイエス様を見た弟子たちのように、その【神秘】を垣間見ることができるのではないでしょうか。この四旬節の中でこの【復活の神秘】を黙想し、復活の喜びを感じるとともに、おん父との栄光のうちに入る恵みを願いながら歩むことができたらいいですね。


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