いかに愛されていたか――福者ジャッカルド神父の生涯(53)
人の価値はその死後にわかるといわれるが、ティモテオ神父の場合は、そのスケールの大きさといい、諸徳の輝きといい、計り知れないものがある。「ティモテオ神父死す」との知らせは、たちまちのうちに、全世界のパウロ家の人たちはもちろんのこと、教会関係者、親戚、恩人、知人、友人の間に駆け巡った。「聖人が亡くなった」と言う人も多かった。
ティモテオ神父の遺体は祭服を着せられ、それを納める棺とともに聖パウロ会本部修道院の聖堂に安置されたが、その棺の周りには、ティモテオ神父の死を悼むパウロ家の人たちをはじめ、親戚、恩人、友人たちがひっきりなしに訪れて、その労を感謝し、永遠の安息を祈った。
翌25日の日曜日、ローマ・カトリック系の朝刊にティモテオ神父死亡のニュースが報道され、各方面より弔電が殺到した。聖パウロ大聖堂を管理する聖ベネディクト会の大修道院長も同会を代表して弔悼の意を表し、アルベリオーネ神父の願いを入れて、聖パウロ大聖堂で昔からの友人の葬儀ミサを行うことを同意した。
26日午前9時ごろ、幼稚園児や女学生を含むカラフルな葬列は、聖パウロ会本部から聖パウロ大聖堂へと向かった。ティモテオ神父の遺体を納めた棺は、聖パウロ会会員たちの肩に担がれていた。11時ごろに荘厳な葬儀ミサと告別式が終わり、その際、依存代表として、アルベリオーネ神父が短い感動的な弔辞を述べた。ティモテオ神父が生前体得した三つの徳、つまり従順・愛徳・信心は皆の模範になったと語ってから、ティモテオ神父の日記の次の箇所を引用した。
力いっぱい戦ってきました。最初に得たものは従順、第二は愛徳、第三は絶え間ない祈りです。
アルベリオーネ神父は、とうとう込み上げる悲しみを抑えることができず、涙声で弔辞をこう結んだ。「たいへん信心深い、とても謙虚なジャッカルド神父さん、またお会いいたしましょう! 私たちのためにお祈りしてください!」と。
聖パウロ大聖堂を出た葬列は、聖パウロ会の墓所のあるヴェラーノ墓地へ向かった。ティモテオ神父の遺体を納めた棺は、12時ごろにその墓地に着き、アルベリオーネ神父から祝別された後、その墓地の聖堂内の遺体安置所に納められた。
それから約19年後の1966年5月30日、アルベリオーネ神父のたっての願いで、ティモテオ神父の遺体はパウロ家の中心となっていた「使徒の女王大聖堂」の地下聖堂の壁内墓所に納められた。ティモテオ神父は、かって創立者からパウロ家のローマ支部設立の使命を託され、ベネディクト会士から案内された「聖パウロのぶどう畑」の中心にいて、神のぶどう畑で働くこの世の人びとを見守り、多くの恵みを取り次いでいる。
そしてついに、1989年(昭和64年)10月22日聖パウロ修道会創立75周年目の年に、ティモテオ神父は、ローマ・聖ペトロ大聖堂にて、教皇ヨハネ・パウロ二世により列福の栄誉を受けた。
- 池田敏雄『マスコミの使徒 福者ジャッカルド神父』1993年
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。
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