権威ある教えという種 年間第4主日(マルコ1・21〜28)

 親は、自分の子どもが悪いことをした時には、本気になって叱ります。それは、その子が、間違った道を歩むことなく成長するためです。そこには、親の愛があるのではないでしょうか。

 きょうのみことばは、イエス様が初めて福音宣教をする場面です。イエス様は、ガリラヤ湖で弟子たちに「人を漁る漁師にしよう」(マルコ1・17)と言われて招かれた後、カファルナウムに行かれます。イエス様と弟子たちは、どのような会話をしながらカファルナウムに歩いて行かれたのでしょうか。もしかしたら、弟子たちは、「人を漁るのって、どのようにするのですか」「難しいですか」などとイエス様に質問し、それにイエス様が答えていたのかも知れません。

 カファルナウムには、大きな会堂があり、人の行き来があり栄えた町だったのではないでしょうか。この日は、安息日であったので会堂には、たくさんのユダヤ人たちが礼拝をしていたことでしょう。イエス様は弟子たちともにカファルナウムに着くや否や会堂に向かいます。みことばは「イエスは安息日に会堂に入って教えられたが、人々はその教えに非常に驚いた。」とあります。安息日の会堂では、「讃美の祈り」「訴願(そがん)」「感謝の結び」という3部に分かれて礼拝がなされていたようです。使徒言行録には、「律法と、預言者たちの書の朗読のあった後、会堂司たちは、彼らのもとに人をよこして、『兄弟たち、あなた方のうちどなたか、会衆のために励ましの言葉がおありでしたら、話してください』と言わせた」(使徒言行録13・15)とありますように、聖書朗読の後に誰かが話をしていたようです。

 イエス様は、この「聖書の朗読後の話し」を用いて人々に教えられたのでしょう。人々は、イエス様が話された教えを聞いて、律法学者のようにではなく、権威ある者のように教えられたことに非常に驚いたのです。イエス様の教えは、ご自身の考えだけではなく、おん父と聖霊の働きと共に人々に話されたのではないでしょうか。もちろん、律法学者たちも「律法と預言者のたちの書(聖書)」を読んだ後に自分たちが研究したこと、感じたことを人々に話していたのでしょうが、やはりそこには、人間の限界があったのではないでしょうか。イエス様は、おん父の意思や教えをそのまま伝えられますから、人々がいつも聞いている律法学者の話とは全く違う何か真理に基づいた「おん父そのもの、本物の教え」を感じたのかも知れません。

 さて、イエス様が人々に教えられているときに、汚れた霊に憑かれた人が「ナザレのイエス、わたしをどうしようというのですか。」と叫びます。この叫び声によってそれまでイエス様の教えに感動していた会堂の空気は、いっぺんにして変わります。汚れた霊に憑かれた人は、イエス様の話に包まれた「聖なる教え」を気に入らなかったのでしょう。それで「わたしをどうしようというのですか」と言います。この言葉は「あなたはわたしと何の関わりがありますか」という意味とで、相手の干渉を拒絶するために用いられていたようです。

 さらにこの人は、「あなたはわたしたちを滅ぼすために来られたのですか。わたしは、あなたがどなたであるか知っています。神の聖なる方です。」と言います。この言葉の中にあります「あなたは【わたしたち】を滅ぼす……」という言葉は、ここだけが複数形になって少し違和感を覚えます。もしかしたら、この汚れた霊に憑かれた人は、自分のことだけではなくたくさんの【汚れた霊】のことを言っているのかも知れません。私たちの社会には、人を惑わすさまざまな誘惑がはびこっていますし、私たち自身の中にもいろいろな【弱さ】や【罪への傾き】があります。みことばの中の「わたしたち」というのは、そういった全ての【汚れた霊】のことを言っているのかも知れません。また、「神の聖なる方」という言葉は、この【汚れた霊】がイエス様の【神聖さ】を認めていると言ってもいいでしょう。私たちが罪を犯す時には、どこかに「イエス様」のことが気になってしまうことと似ているのではないでしょうか。

 イエス様は、【汚れた霊】に対して「黙れ、この人から出ていけ」と叱られます。そうすると【汚れた霊】は、その人をけいれんさせ、大声をあげて出ていきます。イエス様は、その人が【汚れた霊】によって滅びへと進み、永遠の苦しみに入らないように、という思いから【愛】を持って叱られます。そして「けいれん」「大声」というのは、私たちが罪を犯している時、イエス様の方へ向かうよりもっと楽しいこと、悪いと思っても辞められないことを断ち切ろうとする時の【苦しみ】【痛み】を表しているのかも知れません。

 イエス様の福音宣教は、「教え」と「奇跡(癒し)」のセットで行われるのではないでしょうか。弟子たちは、会堂での出来事を通して「人を漁る」ということを実感したことでしょう。そして、イエス様が人々に向かうときの真剣さ、強さそして「愛」を感じたのではないでしょうか。私たちは、イエス様の言葉によって回心するとともに、イエス様と共に愛を持って【悪】に対して権威ある毅然とした態度で向かうことができたらいいですね。