ローマ教会最初の殉教者たち
教会は、6月29日に聖ペトロ使徒と聖パウロ使徒の祭日を祝い、その翌日の6月30日にこの2人の使徒と時を同じくして殉教したローマ教会の殉教者たちを記念します。彼らは、64年7月19日に起きたローマ大火の罪を負わせられ、さまざまな残虐な方法で殺されたキリスト者たちです。名も知られていないこれら多くの殉教者たちのことを思い起こすよう、わたしたちは招かれています。
ローマの都に、いつ、どのようにして教会が生まれたのかは明確でありません。パウロはローマの教会に手紙を記していますが、その記述によれば、パウロはこの時点でまだローマの教会に行ったことはないようです(ローマ1・10-11、13など参照)。おそらく、ローマの教会は、かなり早い時期に、その地にいたユダヤ人たちをとおして生まれたのであろうと思われます。パウロの手紙は、ローマの教会にすでに、ユダヤ人キリスト者だけでなく異邦人キリスト者がいたことを示唆しています。その一方で、ローマの町では、教会に対する悪いうわさが広まり、それに基づくキリスト者への反感が強まっていったようです。主キリストのからだを食べ、血を飲むという主の晩さんの記念は、人の肉を食らい、血を飲むおぞましい行為と受け止められました。また、教会が異教の神々を否定したがために、ありとあらゆる災害がこのようなことをする教会への神々の怒りの現れと受け止められました。
こうした状況の中で、ローマに大火事が起きました。火は、またたく間にローマの町を焼き尽くし、多くの人の命や住む場所を奪いました。住民の怒りはローマ皇帝ネロへと向けられました。かねてからその奇行ぶりで有名だったネロ皇帝は、ローマの町が火事で焼けるのを見たくて、火をつけたのではないかとのうわさが立ったからです。ネロ皇帝にとっては、住民の怒りの矛先が向かう相手、つまり火事を起こした犯人を仕立て上げる必要がありました。こうして、当時、人間にあるまじき行為をおこない、神々にも逆らう、忌まわしき集団とのうわさが立てられていたキリスト者にその罪を負わせたのです。
キリスト者に対する刑罰には、ローマの住民の好意を得るために、見世物としても人々を満足させるような残虐な処刑法が考え出されました。闘技場の中で獣の皮を着させ、野獣の群れに放り込む、庭園で一定間隔にキリスト者を縛り付けて火をつけ、夜の灯火に見立てるなどの記録が残されています。
しかし、この迫害でローマの教会が消滅することはありませんでした。この迫害だけでなく、後に起きるもっと大規模で国家的、継続的な迫害の中でも、教会は生き続け、かえってローマはカトリック教会の中心地となっていくのです。
ローマ教会最初の殉教者たちを荘厳に祝うミサでは、マタイ福音書24・4-13が朗読されます。この個所は、24・1から始まる世の終わりに関する一連の教えの一部です。前半部分では、黙示文学的な表現法をとおして、また後半部分では、たとえをとおして、世の終わりについての教えが語られています。24・4-13は、黙示文学的手法で語られている部分で、世の終わりが来る前の大混乱の様子が描かれています。多くの人を惑わす者の登場(5節)、戦争の騒ぎや戦争のうわさ(6節)、民族同士の争いや国同士の争い、飢饉や地震(7節)、キリスト者に向けられる艱難、殺害、憎しみ(9節)、つまずき、裏切り、憎しみの連鎖(10節)、偽預言者による惑わし(11節)、悪の広がりと愛の低下(12節)。語られているのは、それこそどうしようもない状況です。希望を失わせるような状況であり、理不尽な状況と言えるかもしれません。どうして神はこのような状況を放っておかれるのか、という信仰の根本を問う疑問が生じるからです。しかし、これに対するイエスの教えは、落胆することなく、固く信仰にとどまるようにとの招きです。「誰にも惑わされないように気をつけなさい」(4節)。「そういうことは確かに起こる。しかし、まだ終わりが来たのではない」(6節)。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13節)。混乱が最後の状況なのではありません。「すべての民族に対する証しとして、天の国のこの福音が全世界に宣べ伝えられる」(14節)。福音の完成こそがすべての終わりなのです。「それから、終わりが来る」(同)。
マタイ福音書の著者は、すでにネロ皇帝による迫害を知っていたのでしょう。したがって、この迫害をイエスが語っておられた大混乱の一つと感じていたのかもしれません。ネロ皇帝の迫害にかぎらず、イエスが言っておられることに当てはまる事態は、教会の歴史の中で何度も起きてきました。迫害、戦争、飢饉や地震などの自然災害……。わたしたちにとっては理不尽としか思えないことがらですが、イエスは、これらさえも神のみ手の中にあること、そして世の終わりには必ず神のみ心である福音が成就することを宣言し、だからこそ揺らぐことなく忍耐し続けるようにわたしたちを招かれるのです。わたしたちもさまざまな形でこのような混乱を生きていると言えるかもしれません。決してたやすくはないこの忍耐の歩みを最後まで続けることができるよう、ローマの殉教者たちの取り次ぎを願うことにしましょう。
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