不思議な召命 年間第3主日(マルコ1・14~20)
先週の福音は、「来なさい。そうすれば分かる」(ヨハ1・39)という内容で、今日は「わたしについて来なさい。人を漁る漁師にしよう」(マルコ1・17)と、召命に関する内容が朗読されました。今日の箇所では、最初にペトロとアンデレ、その後、ヤコブとヨハネがイエスに従っていきました。どちらとも兄弟で、二家族がいっしょに導かれたことになります。
彼ら四人ともとても素朴な漁師でした。特別に勉強した訳ではなく、湖で網を打ち、降ろすのが日課でした。そんな彼らが網を捨ててイエスに従っていきます。まさに生活の糧を捨てて従うことになりました。本来であれば、どうやってこれから生きていくのか不安に感じるものです。しかし、イエスの魅力に彼らは取りつかれたのでしょう。生活の糧を捨てるほど、イエスに従うことを選んでいきました。
司祭や修道者となった方々の中には、親の反対を押し切って、この道を選んだ方も数多くいいます。最終的に反対していた人も、叙階式や誓願式などに参加して、その光景を見ながら感動し、反対していた心も緩んで、最後には当の本人も洗礼に至ったケースを耳にしたりします。
7年前、パウロ家族創立百周年を機会に『パウロ家族に呼ばれて――司祭、修道士、修道女の召命――』という小冊子が発行されました。その中で師イエズス修道女会のシスター小柳さんが書かれた「一歩ずつ」という記事が心に響きました。
「両親、兄弟たちの反対を押し切って家を出た日は、ちょうど聖金曜日でした。九州の小さな町から汽車で一日かかって東京に着いた私は、当時大学生だった兄の出迎えを受け、修道院にではなく、まっすぐ叔父の家に連行されてしまいました。後日、母の手紙で知ったことは、私が家を出たその晩、父は男泣きに泣いたそうです。長年つれそってきた母も、初めてそのような父の姿を目にしたのだそうです」と。(64~65頁)
司祭、修道者たちの召命には、不思議な恵みや道のりを感じます。
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