イエス様と出会うという種 年間第2主日(ヨハネ1・35〜42)
私たちは、好きな人、気が合う人と一緒にいると話も進み、時間が経つのが速く感じられ、もっとその人との一緒にいたいと感じられます。きっと、イエス様に出会った弟子たちも同じような気持ちになったのではないでしょうか。
きょうのみことばは、イエス様と最初の弟子たちが出会う場面です。みことばは「その翌日、ヨハネはまた、2人の弟子とともに立っていた。そして、イエスが歩いておられるのを見つめて言った『見るが良い。神の小羊だ』。」という言葉から始まっています。また、29節にも「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方に来られるのを見て、こう言った、『見るが良い。世の罪を除く神の小羊だ。』」とあります。この2つの言葉に共通するのは、【その翌日】という言葉と、洗礼者ヨハネが、「【見るが良い。】【神の小羊だ】」と言っているということです。
ヨハネ福音書は、まず、洗礼者ヨハネがイエス様を【証しする者】という使命をおん父からいただいているということを丁寧に示すために何度も【その翌日】という言葉を使っているのではないでしょうか。さらに洗礼者ヨハネは、イエス様と出会った後、もう1日経ってから自分の弟子たちをイエス様の所に遣わしています。この1日の中で洗礼者ヨハネは、自分の弟子たちにイエス様がどのようなお方かを語られたことでしょう。洗礼者ヨハネは、【その翌日】も2人の弟子達を連れてイエス様が通られるのを見ます。彼は、自分の身近な2人の弟子と一緒に通りに立っていて、「この弟子たちならイエス様の弟子としてお役にたつことができる」と思ったのではないでしょうか。洗礼者ヨハネは、イエス様を証し人々に洗礼を授け、イエス様のことを人々に話すだけではなく、自分の弟子さえもイエス様に差し出したのでした。
2人の弟子は、洗礼者ヨハネから「見るが良い。神の小羊だ。」と言われた後にイエス様についていきます。ヨハネ福音書は、度々【見る】という単語を使っていますが、頻繁に【見る】が使われている場面は、このイエス様と弟子たちの出会う場面とイエス様の復活の場面ではないでしょうか。みことばの中に出てくる【見る】と言う言葉は、ただ単に「目で見る」と言うことだけではなく、信仰につながるような大切な単語として使われることがあるようです。弟子たちは、ヨハネから「見るが良い」と言われて意識しながら初めてイエス様を【見た】のではないでしょか。
彼らは、洗礼者ヨハネから前日話を聞いた「世の罪を除く【神の小羊】である」イエス様が目の前を通られているのを見ます。この【神の小羊】というのは、イザヤ書や使徒言行録に出てくる「……屠られるための小羊のように、彼は引いていかれ、毛を刈る人々の前の雌羊のように、彼は物を言わず、口を開かなかった。虐げと裁きにより、彼は取り去られた。」(イザヤ53・7、使徒言行録8・32〜33)のように、人々の罪を贖ってくださるメシアのことを表しているようです。ヨハネの弟子たちは、師から話を聞いたそのお方に自らついて行ったのでした。
さて、イエス様は、彼らに対して振り返られご自分の方から「何を求めているのか」と声をかけられます。この【声】をかけは、一つの【召命】への招きと言ってもいいでしょう。イエス様は、彼らがなぜ自分の所について来ているのかご存知だったでしょうが、あえて彼らの口から答えを聞きたかったのではないでしょうか。彼らは、「どこにお泊まりですか」と何とも不思議な答え方をします。彼らは、イエス様がどのようなお方なのかをもっと知りたいと思っていたようです。イエス様は、彼らに「来なさい。そうすれば分かる」と答えられます。私たちは、イエス様の呼びかけに答え、意志を表明し、さらについて行く(行動に移す)ことが求められているような気がします。弟子たちは、イエス様の「来なさい」という言葉を聞いて、ついて行きその日はそこに留まります。
弟子たちは、イエス様とどのような会話をしながら夜を明かしたのでしょう。ちなみに【留まる】というのは、ぶどうの木と枝のようにしっかりと繋がっているという意味を表しているようです(ヨハネ15・1〜6)。さらにパウロが言うように「主と結ばれる者は、主と一つの霊となります。」(1コリント6・17)のように、【霊】においても繋がると言ってもいいのではないでしょうか。この箇所は、私たちがイエス様から声をかけられ、洗礼の恵みをいただき、イエス様と深く繋がっているということを思い起こす良い機会なのかもしれません。
彼らの1人のアンデレは、兄弟であるシモンを見つけ「メシアに出会った」と伝えます。彼は、前の晩の出来事を早くシモンに伝えたかったのでしょう。イエス様に魅せられた人は、自分だけに留めておくのではなく、他の人にも知らせたいと思うのでしょう。アンデレは、シモンをイエス様の所に連れていきます。イエス様は、シモンを見つめられ「……『岩』と呼ばれるであろう」と名付けられ、新たな使命を授けられます。イエス様は、ただペトロを【見る】だけではなく【見つめ】られます。この二人の出会いは、互いの心が揺さぶられるような場面ではないでしょうか。私たちとイエス様の出会いもこのような心が揺さぶられるような日々となればいいですね。
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