洗礼の恵みという種 主の洗礼(マルコ1・7〜11)
「謙遜」という言葉を耳にしますが、「謙遜な人」というのどのような人のことを言うのでしょう。「自分は謙遜な人だ」と思っている人は、たぶんもうその時点で「謙遜」ではないのかもしれません。本当に謙遜な人というのは、自分自身が「謙遜である」と意識すらない人ではないでしょうか。これは、おん父からの恵みと言ってもいいのかもしれません。
きょうの典礼は、『主の洗礼』であり、みことばはイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになる場面です。みことばは、「ヨハネは宣べ伝えて言った」という言葉で始まっています。洗礼者ヨハネは、イザヤ預言書に書かれてあるように「わたしはあなたの先にわたしの使いを遣わし、あなたの道を整えさせよう。」(マルコ1・2)と、おん父からイエス様が来られる前の準備として遣わされた方でした。洗礼者ヨハネは、人々に「罪の赦しへと導く悔い改めの洗礼」を宣べ伝えていました。彼の周りには、おん父から離れた生活をしているという意識を持つ人が集まってきていたのでしょう。彼は自分の所に集まってきた人の告白の言葉に耳を傾け、ヨルダン川で洗礼を授けていました。人々は、ヨハネこそ来るべきメシア(救い主)ではないかと思っていたのではないでしょうか。
洗礼者ヨハネは、そんな彼らに対して「わたしよりも力がある方が、後からおいでになる。わたしは身をかがめて、その方の履き物の紐を解く値うちさえない。」と自分のことを宣べ伝えます。洗礼者ヨハネは、エルサレムにすべての人が彼のところに集まってきて、彼の話を聞き悔い改めて告白をし、洗礼を受けにきているのにも関わらず、自分の後からもっと力を持った方が来られるということを宣べ伝えます。さらに、「その方の履き物の紐を解く値うちさえない」と言っています。当時の履き物は、革製のサンダルで道は舗装されていませんでしたから泥や埃、そしてその人の汗でかなり汚れていたことでしょう。また、履き物を履いている人は、自由な身分であり、その履物の紐を解く人は、奴隷の仕事だったようです。人々は、洗礼者ヨハネの言葉を聞いたときに「彼が自分のことを奴隷以下である」と言っているとすぐに理解したのではいでしょうか。
洗礼者ヨハネの周りには、エルサレムから来た人もいたでしょうし、彼の話に賛同して弟子になった人もいたことでしょう。そのような人の前で洗礼者ヨハネは、自分のことを正直に伝えます。ここに彼の【謙遜】が現れているのではないでしょうか。彼は、おん父から遣わされ、人々に【悔い改め】の洗礼を授け、「後から来るイエス様へと導く」という自分の使命を忠実に果たします。ヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネが自分の弟子たちに「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」(ヨハネ3・30)と伝えている箇所もあります。洗礼者ヨハネは、このように自分のことを心から謙(へりくだ)って、イエス様を証しする者という使命に徹していました。
洗礼者ヨハネは、「わたしは水であなた方に洗礼を授けたが、その方は聖霊によって洗礼をお授けになる」と宣べ伝えます。洗礼者ヨハネの【洗礼】は、水によって【悔い改め】させ、来るべきメシアをふさわしい心で迎えるためのものに対し、イエス様の【洗礼】は、水だけでなはなく「水と聖霊」によって授けられ、罪が清められ、超自然の命が与えられ、人々を霊的に生まれ変わらせるもののようです。『主の洗礼』は、私たちが「水と聖霊」による【洗礼】の恵みを頂いていることを深く味わう良い機会かもしれません。
イエス様は、ガリラヤのナザレから洗礼者ヨハネの所にどのような気持ちで洗礼を受けに来られたのでしょうか。イエス様は神の子ですから悔い改めることも、洗礼を受ける必要はありませんでした。しかし、イエス様は神の子であるとともに人の子でもありました。パウロは、「キリストは神の身でありながら、神としてのあり方に固執しようとはせず、……人間と同じようになられました。」(フィリピ2・6〜7)と伝えています。イエス様は、人々がヨハネの所に行って洗礼を受けているように、ご自分も洗礼をお受けになられたのです。
イエス様が洗礼を受けられ水の中から上がると、「天が開け、……『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者』」という天から声がします。この言葉は、おん父が公にイエス様をご自分の子として私たちに示されたのではないでしょうか。また同時に、洗礼の恵みを頂いた私たちに対しても同じことを言われておられます。では、「おん父の心にかなう者」とは、一体どのようなことでしょう。イエス様がお受けになられた洗礼は、十字架の死と復活への始まりといってもいいでしょう。パウロは「キリストの死にあずかるために、洗礼によってキリストともに葬られたのです。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活されたように、わたしたちもまた、新しい命に歩むためです。」(ローマ6・4)と言っています。「わたしの心にかなう者」というのは、私たちがイエス様に倣って歩むように、「死と復活にあずかる」と言われているように思えます。私たちは、『主の洗礼』の典礼を黙想しながら今いただいている恵みを振り返ることができたらいいですね。
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