創立者と協働して――福者ジャッカルド神父の生涯(49)

 第二次世界大戦終結の翌年の1946年(昭和21年)カノニコ・キエザ神父の死去から3ヵ月後の9月の終わりころのことである。アルベリオーネ神父は、二人の顧問たちと一緒に、自家用車でローマからアルバへ向けて出発した。ティモテオ神父を説得して、聖座付代表者(パウロ家とその会員の諸問題について、聖座との折衝に当たる役員)になってもらうためである。

 彼らの車は応急修理をした中古車である上に、当時の道路は舗装状態も悪かったので、自動車旅行は快適どころではなかった。おまけに、アルベリオーネ神父は病者の塗油の秘跡を受けたばかりの状態で、危険極まりない旅であった。それでも、アルベリオーネ神父があえてこの危険な旅に挑んだのは、聖座の高位聖職者たちとの幅広い人脈を持つティモテオ神父を、どうしても自分のそばに置いて、聖座との折衝に当たらせたかったからである。

 戦後の混乱した社会の中で、おまけに雨後の筍のように出た怪しげな出版物によって人びとの心身はさらに汚染されていた。これを清めるには、以前にも増して、み言葉による宣教活動が必要であった。アルベリオーネ神父は、時のしるしをいち早く見通して、全世界のパウロ家の使徒職を再編し、発展・充実させることを目指した。

 さらに、戦争中にパウロ家のメンバーを戦災と死からお守りくださった聖母マリアに感謝するため、ローマに「使徒の女王の大聖堂」を建立することを計画した。そのために、ティモテオ神父に、どうしてもローマにいてほしかった。

 このアルベリオーネ神父とティモテオ神父の関係は、パウロ家の創立当時から、二人三脚で福音宣教を行っていた聖パウロと聖テモテにも似て、ティモテオ神父は創立者の考えと望みを察知して、黙々と、骨惜しみせずに、忍耐強く実践していた。「常に、すべてをプリモ・マエストロと協働して」というのがティモテオ神父の生涯を貫くモットーであった。

 これを裏付けるかのように、アルベリオーネ神父はティモテオ神父についてこう述べている。「ティモテオ神父は、最初からずっと、事実上の聖座付代表者でした。はっきり言って、私は自分以上にティモテオ神父を信用しています」と。それで、アルベリオーネ神父は、聖パウロ会にとって重要な決定を下す時とか、各会員をどこに派遣したり、重要な職務に任命する場合には、必ずティモテオ神父と協働して行っていたのである。

 聖座付代表者としてのティモテオ神父には、アルベリオーネ神父からいろいろな仕事が委託されたが、その中でも重要なものは、聖パウロ修道会の「指針書」を作成することであった。ティモテオ神父は力を尽くし、知恵をつくして最初の「指針書」を作成したが、アルベリオーネ神父の考えや精神を反映して、その霊的生活の神髄にふれているものであった。アルベリオーネ神父は、「この指針書にはティモテオ神父の精神が反映されていますが、これらの指針を守るなら、私たちは幸せになり、本物のパウロ会員になれるでしょう……」と評している。

 パウロ家の使徒職は多種多様であるが、その中に「苦しみ」の使徒職もある。ティモテオ神父は、責任の重い、多忙な職務を担っていただけに、その心痛も大きく、それに、もともと頑強な体質ではなかったので、病苦にも耐えねばならなかった。それで、この分野の使徒職の価値をよく理解していたティモテオ神父は、他の人たちに次のように勧めている。

 不快感、病気、悲しみ、見通しの立たない状態、苦悩を甘受し、これらに耐え、これらを十字架につけられたイエスにささげなさい。つらいと思っていること、対立していること、矛盾していることに耐えて、これをイエスにささげなさい。それは、ただ心を清める手段としてだけでなく、長年にわたり、おそらく一生続けられる誠の使徒職ともなります。

 1947年(昭和22年)7月、ティモテオ神父の指導による最後の年の黙想が行われたが、その時は、すでに「使徒の女王大聖堂」の建築工事が始まっていた。ティモテオ神父は、毎日建築現場を施設しては、「天使祝詞」を唱えていた。そして、この年の8月19日には、サロット枢機卿を招いて、荘厳な定礎式を行った。

 アルベリオーネ神父は、五つの修道会とこれに準ずる四つの聖別奉献の在俗会、そして一つの協力者会を創立したが、これらをまとめて「パウロ家」と称している。ティモテオ神父は、前述したとおり、最初の五つの修道会と協力者会の創立・要請の面でも、教会当局から許可を受けることにおいても、精根を込めてアルベリオーネ神父に協力した。


  • 池田敏雄『マスコミの使徒 福者ジャッカルド神父』1993年
  • 現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。