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恩師の逝去――福者ジャッカルド神父の生涯(48)

 第二次世界大戦終了の翌年の1946年6月14日、アルバ神学校の最愛の恩師カノニコ・キエザ神父が亡くなった。カノニコ・キエザ神父は、ティモテオ神父に限らず、パウロ家にとって偉大な恩人であり、賢明な助言者であり、後援者であった。

 司祭としての霊性と広範な知識(哲学・進学・教会法・民法の博士)とをもって、神学校をはじめ教区や諸修道会に数知れない貢献をしてきたということで、最近「列福運動」も進められている。このカノニコ・キエザ神父がパウロ家を最後に訪問した時の光景は、ティモテオ神父にとっても忘れがたいものであった。それは聖金曜日、パウロ家一同が聖パウロ聖堂に集まって朝の祈りを唱えているところであった。中央祭壇背後の聖歌隊は、「見よ、義人はいかにして死ぬかを」という答唱詩編を合唱していたのである。

 すると突然、この聖堂の中央扉が開いて、カノニコ・キエザ神父が入ってきた。背が高くほっそりしているカノニコ・キエザ神父は、落ち着いた表情で、ゆっくりと、堂々と歩き、目を上げずに、中央祭壇のほうに向かった。内陣の聖職者席まで来てから、ひと言もいわずに、祭壇背後の歌隊席近くにひざまずいた。この間、聖歌隊は「見よ、義人はいかにして死ぬかを」と合唱していた。この歌に耳を傾けてから立ち上がり、再び聖堂内を通り抜けて姿を消した。それ以後、ここに来ることはなかった。

 この時、カノニコ・キエザ神父は、すでに自分の最後の近いことを予感していたのであろう、その数週間後に病床に伏し、再起不能となった。医者たちは全力をあげて治療にあたったが、その甲斐もなく、体力は衰える一方だった。ティモテオ神父は毎日、時には日に何度もこの病人を見舞い、何くれとなく世話をしていた。

 実に、聖金曜日の夕食後に、ティモテオ神父は聖歌隊の指揮者に会ってから、こう行ったということである。「あの歌は、全くカノニコ・キエザ神父様向けのものでしたよ。私が死ぬ時も同じ歌を歌ってくれませんか?」と。こう言われて若い指揮者はびっくりしたが、しぶしぶ承知したのであった。わずかその2年後にこの約束を果たさざるを得なくなるとは、夢にも思わなかったのである!病床に伏したカノニコ・キエザ神父は、数日後に病状が悪化した。「喉頭炎」という医師の診断である。アルベリオーネ神父も、自分の指導者の最後を看取るために、アルバ修道院にやって来た。ちょうどその時、カノニコ・キエザ神父を見舞って帰ってきたティモテオ神父と出会った。

  「カノニコ・キエザ神父様の具合はどうですか?」

 「何時ものとおり落ち着いていました」

 と、ティモテオ神父は答えた。アルベリオーネ神父は一瞬潜心してから頭を下げ、手を合わせながら、こう言った。

 「見よ、義人はいかにして死ぬかを」と。

 それから、ティモテオ神父と連れの司祭会員を残して、自分の部屋に引きこもった。

 カノニコ・キエザ神父は、一1946年6月14日に死去した。この恩師を失ったティモテオ神父の心にはポッカリ穴が開いたようになったが、同時に天から見守り続けてくださるという確かな希望をも抱いていたのである。


  • 池田敏雄『マスコミの使徒 福者ジャッカルド神父』1993年
  • 現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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