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第二次世界大戦の嵐――福者ジャッカルド神父の生涯(44)

 第二次世界大戦(1939~1945)に巻き込まれたパウロ家の全体像は、拙者『アルベリオーネ神父』の239~249ページに詳述したので、そちらを参照していただくとして、本書では、それ以外のティモテオ院長の戦争体験を述べてみよう。

 戦争末期の1944年(昭和19年)の夏から45年にかけて、イタリア戦線は、南部から北部のアルバあたりまで北上してきた。当時、アルバ市内にはナチス・ドイツ軍の援助を受けていたムッソリーニのファシスト軍(共和国軍)が陣を張り、その郊外では米・英などの連合軍と手を結んだイタリア・ゲリラ(バルチザン)が次第に包囲網を狭めてきていた。

 ティモテオ院長は、『ガゼッタ・ダルバ』週刊新聞に、この期間中(1944年7月~1945年5月)に6回執筆しているが、それを読むと、ティモテオ院長の戦争観なり、戦禍への処世術が明らかになる。特に、1944年11月の論説で、ティモテオ院長は「死者の月」にファティマのメッセージを思い起こして、回心と祈りの必要を読者に訴えている。戦争は遠い戦場での殺し合いにとどまらず、じわじわと私たちの日常生活を締め付けて、ついには一人ひとりを戦火に巻き込んでしまう。ティモテオ神父は、次のように述べている。

 「泥沼の長期戦は、私たちのあずかり知らぬ所で起こっている」と思われていました。ところが、戦場はこのあたりの丘陵地帯にも及んできたのです。……大勢の人が飢え死にするというのに、暴飲暴食をやめたでしょうか? 今は、警戒警報で、市民は上を下への大混乱です。しかし、“喉元過ぎれば熱さを忘れる“ で、警報が解かれればもとの状態に戻ってしまうことでしょう。

 そして、戦争は人びとの心をむしばみ、略奪を欲しいままにさせ、これに逆上した人たちとの殺し合いを激化させる。ティモテオ院長はこの体験から、各人の自制心、良識、責任感が、この戦時下にこそ必要であると訴えている。「すべてに越えて愛すべき、たたえられるべき神がおられます。殺してはいけない、不純な行為をしてはいけない、盗んではいけない、嘘をついてはいけない、と命令される神がおられます」と。

 アルバのパウロ会員数名は、「このような状況下では志願者たちの養成はおろか、衣・食の世話も満足にできないし、ましてや戦渦に巻き込まれて死亡でもすれば、責任を問われてたいへんなことになる。せめて親元や親戚の家に帰れる志願者たちを帰したらどうか」と、ティモテオ院長に強く迫った。確かに、そうすれば院長としての負担も少なくて済む。しかしティモテオ院長は、それよりも大所高所から判断を下し、次のように言って、彼らの提案をきっぱり断った。

 それはだめです! 志願者たちは家に送り返しません。あの人たちは、修道院の“避雷針“なのです。神様の助けがなくなることはないでしょう。神様は志願者の配慮をしてくださるでしょうし、また、志願者を通して大人の私たちの配慮もしてくださるでしょう。

 この信仰も報われることになった。配給制度による週一回の肉の配給でも、先に述べた「自給自足」という生活のスタイルを先取りしていたお陰で、栄養失調者が出るほどでもなかったし、衣類もどうにか間に合ったし、何よりもラッキーだったのは、死傷者が一人も出なかったことである。


  • 池田敏雄『マスコミの使徒 福者ジャッカルド神父』1993年
  • 現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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