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何よりも愛徳――福者ジャッカルド神父の生涯(42)

 ティモテオ・ジャッカルド神父の人柄の中核をなすものは、何といっても、その優れた愛徳であろう。聖パウロは、ほかのどんな優れた特技があろうと、どんな財産があろうと、どんなに外見がよかろうと、愛徳がなければ、人としての価値はなきに等しい、まで言い切って、愛徳とは何かを描写している。「たとえ、あらゆる知識に通じていようとも、……愛がなければ、無に等しい。……愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(Ⅰコリント13・2,4~7)。

 アルバ母院の出入りの業者は、ティモテオ院長と大立ち回りを何回か演じようとしたが、その都度失敗してしまった。彼は告白している。

 支払いが滞っていたので、頭にきた私は、怒鳴り込んでやろうと意気込んで出掛けたことが何回かあります。でも、あの修道院へ行って、ティモテオ神父様とばったり出会うと、腹の立てようがなくなるのでした。あの神父は、むしゃくしゃした私の気持ちを静める不思議な力を供えていたばかりか、私に喧嘩の代わりに別の奉仕をさせる気にし、ゆるしを願う羽目にしてしまうのです。あの仕草は頭から離れません。学・徳共に高いあの方がドアの所まで私を見送る時に、決まってキャラメル一個を、あたかも子どもにあげるかのように、プレゼントしてくれました! あの方と会った後はいつでも、いい気分になり、取引がそれほどうまく行かなくても晴れ晴れした気持ちになり、信頼を取り戻していました……。

 また、愛徳の側面は、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く……」(ローマ12,15 )ということであるが、ティモテオ院長は、まさにこの言葉を地で行っていた。内輪の祝い事があれば、そこに出かけていき、各グループやパウロ家の人たちと快く歓談し、その人たちと喜びを共にしていた。「お祝いの言葉を述べたり、お祝いの言葉をいただいたり、お礼を言ったり、お礼を受けたりするのも謙遜です」というのが、ティモテオ院長の持論であった。

 そして、「個人であれ、共同体であれ、何ごとにも熱心であれば、聖霊のお恵みを受けて喜びを味わえるはずです。その結果、心は平静で、満ち足り、明るくなる」と言って、「楽しい修道院」づくりに努め、他の人にもそれを勧めていた。シスターたちが笑ったり、冗談を飛ばしたりしているのを時々見かけて、こう言ったものです。「とてもにぎやかで楽しそうですね! 私もたいへんうれしくなりますよ!」と。

 また、兄弟会員の家族の中に不幸があれば、ティモテオ院長は、その苦しみを共にした。たとえば、会員の家族のだれかの死亡通知が届けば、遺族の深い悲しみを自分のものとしてから、その悲しみを和らげようと、死者のための祈りをし、お悔やみ状を送った。それに加えて、不幸のあった家族のもとへ、院長代理・修道会代表として一司祭を遣わし、葬儀に参加させて遺族を慰め、祈りで支えてあげるのだった。

 愛徳を体得する基礎は「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7.12)ということであるが、ティモテオ院長の場合、この具体例については、前にも述べたとおり、枚挙にいとまがない。兄弟会員が破れた靴を履き、ほころびた衣類を着ているのを目ざとく見つけては、係のシスターに何とかしてくれと頼むのであった。

 また、聖パウロ会のサンフレ療養所のパウロ家の病人を見舞い、温かな言葉をかけて、思い出を語り合い、励まし慰め、自分に贈呈されたチョコレートだの、キャラメルだの、リキュールだのを患者に分け与えていた。病気が重くなると、世の母親にも勝さる愛情で苦しみを共にして祈り、手厚く最後を看取り、できるだけ盛大な葬儀をするように努めていた。

 ある教師がティモテオ院長のところに来て、ある生徒か誓願者学生かの芳しくない成績を盾に、気に入らないこの若者を「退会させてはどうか」と言った。すると、院長は答えた。「もう少し待ちましょう……。追試験をもう一度やってみなさい……。もう一度お恵みの時を与えてみましょう」。

 「この子は何んでもだめにしてしまうのですよ! 害になるばかりです!」と、その教師は嘆いた。

 「我慢してください。この子はいろんなことがわかってきて、最高の成績を上げますよ」と、ティモテオ院長は諭すのだった。実際に、後でそのとおりになった。歴史がこの院長の正さを証明することになったのである。

 以上の事例のとおり、ティモテオ院長は、人物評価の基準を、ある特定の人からのマイナス評価や評判だけに置かずに、“欠点だらけの人にも必ず長所があるはずだ“と、それを褒めて育てることに気を配ったのである。つまり、ティモテオ神父の言葉を借りれば、「非難されている人の何かよいところを認めてあげなさい。また、一つの言い回しに二重の意味があれば、いつもそれをよいほうに解釈しなさい。これが愛であり、主いやりというものです」というのが、面接評価の基準であった。


  • 池田敏雄『マスコミの使徒 福者ジャッカルド神父』1993年
  • 現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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