院長としての心得――福者ジャッカルド神父の生涯(35)
1936年6月10日、アルベリオーネ神父は、聖パウロ会の本部をアルバ修道院からローマ修道院に移した。それ以後、ティモテオ神父はアルバに呼び戻され、46年までアルバ母院の院長職を務めることになった。この十年間が、ティモテオ神父の生涯で、40歳代のもっとも活動的な、油が乗った時期であった。
(話は前後するが、ティモテオ神父には、1930年の夏から一年あまりアルベリオーネ神父の指示で、アルバ母院での休息と研修の時期が与えられていた。)
そこには、パウロ家の使徒職を世界規模にまで拡大しようとする、アルベリオーネ神父の戦略が秘められていた。外国に派遣する若い会員たちをローマの国際的な教会の雰囲気になじませ、ローマ修道院の院長職や会計係に任命して体験学習させ、世界に羽ばたく下準備をさせたのである。
1936年の夏、ティモテオ神父が年の大黙想の指導司祭としてアルバ修道院に来ると、それに呼応するかのように、アルベリオーネ神父はローマに出かけ、複雑の問題解決のために、「奉献・使徒的生活会省」との接触を始めた。こうして、アルベリオーネ神父は聖パウロ会本部に定住し、ティモテオ神父は、アルベリオーネ神父の指示により、大黙想後しばらくしてアルバ修道院(注、当時、在院者数は約3百名)の院長に就任した。
ティモテオ神父は、この新しい任務を第二の天職と記し、その覚悟のほどをこう述べている。「今になって、私の第二の天職がはっきり見えてきたようです。この内容をより明確にすれば、こうなります。つまりプリモ・マエストロ(Primo Maeatro =アルベリオーネ神父)の精神と指針を保持し、代弁し、悟らせ、伝えていくことです。それで、私はあの方の助言とこの天職を、素直に、愛情を込めて、真心から『謙虚に』受託いたします」と。
1939年の諸黙想会中に書かれた日記によると、ティモテオ神父が院長として何かを決定する場合、その判断の基準となるのは、大なかに次のようなことであった。
私としては、何が役に立つかを判断するにあたって、それが謙遜を深めて謙虚を弱めるものであるかどうかを見極めます。また、犠牲をいとわず安楽を求めないものであるかどうか、節欲を助成して感情を抑えるものであるかどうかを見極めます。
……長上たちから頼まれると、私は素直に応じ、我慢し、信じて疑わないでしょう。兄弟・姉妹たちの欠点を目にしても、私はよけいな、からかい半分の、とげとげしい解釈はしません。職務上やむを得ない場合とか、助力できる場合とかに限って、人をほめます。
私が求めるのは、会憲に基づいて、相手にその行為を説明させ、それを聞いてあげることです。
私は、命令を出すことよりも、それに従っていただけることに心を砕くべきでしょう。
皆を私の上司と見なしたいのです。
私の決定は堅固で、揺るぎなく、確信があって、修道者としての動機から出る物にしましょう。
上司がしていないことを部下に求めるのは難しいし、他の人が違反していることを部下に要求するのも難しいものです。それでも、決して責任逃れをしてはいけません。権限行使は従順のほんの一面であり、自己犠牲の必要な奉仕であり、下働きであり、重荷なのです。私たちは、いけにえのイエスなのです。
- 池田敏雄『マスコミの使徒 福者ジャッカルド神父』1993年
- 現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。
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