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パウロは多重人格障害?

 「キリストが私の内に生きている」の言葉に加えて、パウロは「キリストが私を通して語っている」と主張し、パウロに批判的な信徒たちから、「その証拠を見せてくれ!」と迫られたこともあります。

 確かに、こうした言葉だけで判断すると、パウロが多重人格障害を持っていたと言えそうですが、そのような判断をする人はありません。なぜなら、パウロの他の言葉やその生き様を総合的に判断すると、まったく異なる結論に達するからです。

 「ガラテヤの信徒への手紙」2章20節の前後を読むと、この言葉がパウロの信仰を表明した言葉だということを、ご理解いただけるでしょう。この言葉の真意がどこにあるのかは不明です。かつてのパウロは律法を宝として生きていましたから、その律法に代えて、今はキリストを宝として生きているということを言っていると解釈することもできます。また、パウロの神秘体験を言い表していると解釈することもできます。私はパウロがどれほどキリストの現存を身近に感じていたかを表す言葉として受け取っています。

 ダマスコにおける栄光に輝くキリストとの出会いは、パウロの脳裏に焼きつきました。脳裏ばかりでなく、パウロの五感にも焼きついたに違いありません。パウロがあの場面を思い出すとき、目は耐え難い輝きを改めて感じ、主のみ声を改めて聞き、異邦人にキリストを宣べるよう遣わされたことを、今起こっている出来事のように、鮮烈に体験していたに違いありません。ダマスコの途上において、キリストの現存は、パウロの心にも精神にも五感にも、全てに焼き込まれたのです。

 あの時以来、パウロは自分がキリストに捕らえられていると、常に感じています。それに加えて、自分の中に働くキリストの霊を強く体験していました。こんなパウロでしたから、「キリストが私の内に生きている」と言っても不思議はないと思います。パウロの内に「どのように」キリストが生きているのかは不明です。ただ、パウロが「キリストが私の内に生きておられる」と言うまでに、キリストの現存をたいへん身近に感じていました。それほどパウロはキリストを意識し、また意識させられていたのです。


回答者=鈴木信一神父


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