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パウロはどんな復活祭を祝った?

 パウロは「主の来臨」が近いことを確信していましたから、年に一度の「復活祭」をどのように祝うかについて、余り留意しなかったでしょう。ただ、毎年春になると「過越祭」が巡って来ました。パウロばかりでなく、当時のユダヤ人キリスト者たちは、当然のこととして「過越祭」を祝い続けていました。過越祭はイエス様のご命日でもあるわけですから、彼らはそこに「イエス様の死と復活」の記念を付け加えたに違いありません。

 パウロが入信した当初、キリスト者の過越祭の中におけるイエス様の記念は、まだ控え目だったでしょうが、年とともに、着実に充実していきました。たとえばイエス様の御受難・御死去の様子を詳しく語る「受難物語」の成立です。これは過越祭においてイエス様のことをより心を込めて記念するために、大いに役立ったに違いありません。後にマルコは、この受難物語を軸にして『マルコ福音書』を書きました。

 パウロは、その手紙の中で一度だけ「過越」という言葉を用いています。

 「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られた。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで祭りを祝おう。」(一コリント5・7—8)

 この手紙がコリントの信徒に宛てて書かれていることは注目に値します。彼らはユダヤ人ではありませんから、もともと過越祭がどのようなものかを知りません。しかしパウロの文面からすると、彼らは過越祭を祝うことを当然と考え、しかもその祝い方を心得ているのです。パウロがコリントで福音を語った時点で、すでにイエス様の御復活は過越祭において祝われていたのでしょう。

 「過越の小羊」という言葉にご注意ください。これはイエス様の死と復活が、過越祭と結び付けて理解されていることを表しています。ご存知のように、「過越の小羊」は、過越の食事における唯一の「メインディッシュ」です。この表現にはイエス様こそが過越祭の中心であるという確信が表明されています。

 「パン種」にもご注意ください。これは当時のキリスト者たちの過越祭が、ユダヤ教の過越祭をそっくり受け継ぐものであったことを示唆しています。

 パウロたちは、ユダヤ教の過越祭を受け継ぐ中で、「御復活」を祝いました。これが私たちの「復活徹夜祭」の原型となりました。

 いっぽう、ユダヤ教の人々は今でも彼らの過越祭を祝い続けています。彼らの過越祭は、パウロの時代の「復活祭」を理解するための「貴重な手がかり」です。


回答者=鈴木信一神父


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