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召命の契機 佐々木俊平 志願者

 聖パウロのように劇的な回心があったから私は洗礼を受けたのでも召命を受けたのでもない。そのきっかけを問われても今はただ時の流れの中で積み重ねてきた様々な体験が徐々に私を―つの方向に歩ませたからとしか答えようがない。

 しかし、記憶を振り返るに、ある経験の最中にその出来事が後にある契機と繋がることがあるとはその時になるまで分からないものである。私の召命も今は振り返るに足る経験と時間とが不足しているので上手く言策にできないだけかもしれない。

 とはいえ今の段階で全く召命のきっかけとなった出来事を思い返せないわけではない。それは洗礼を受けてから間もないころに起きた話である。

 当時、所属していた教会で行われた青年の集いで出会った青年とたまたま帰り道が同じになり、何気ない会話を交わしていた時のことであった。きっかけは何だったか覚えていないが「何かを信じるとはどういうことか」という話題になった。

 彼は知ることと信じることとは異なるものであると言った。ある事を知っていたとしてもそれだけでは信じることには繋がらないと。私はよく理解できなかったが場の雰囲気に流され納得したような相槌をした。そして、知ることと信じることとは違うという物事を単純に二分してしまうありきたりな結論に達して話は別の方向へと流れていった。

 しかし、この短いやり取りは思いのほか私の脳裏に焼き付いたようで折に触れて何度も思い起こすことになった。その度に新しい解釈が浮かんでは消えてを繰りかえし、知ることと信じることとの区別について簡単に思えて難解な問いが付きまとうようになった。未だに答えは出ないが、それは知ると信じるとは異なるもの同士でありながら密接に拘わっていることに原因があるのだろう。

 この問いは何かを知るにしても信じるにしても人間は絶対的な客観性を以て正しいか否かを識別してそれらを受け人れるのではなく、その対象を蓋然性により、つまり、知人が「昨日、喫茶店に行った。」という言に対してわざわざ領収書などの証拠を出させ、その行動が事実か否か詮索しないように一種の信頼のようなものによって友人の昨日の行為を知り且つ信じることに例えられるであろう。

 そこからキリストと顔と顔とを合わせたことのない現在の私たちが神を信じるに至る経緯について完全な答えが得られるとまでは行かなくても朧気(おばろげ)なヒントが得られるのではないだろうか。


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