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刈り入れは多いが、働く人は少ない。 鈴木信一神父

 先日ドイツで長く働いておられるシスターが書かれた記事を読みましたが、「人々の教会離れは激しく止まらず、教会は瀕死の状態にある。それは森の大木が朽ち果て、倒れるようなものだ。朽ちて倒れた大木の幹から、また新しい若枝が生まれ出る。だから、大木が朽ち果てるのは決して無意味ではない。それは新しい命の始まりなのだから」といった趣旨のことが書いてありました。巨木が倒れ朽ち果てるのは、それだけを見ると悲しみですが、長い目で見れば確かに再生と希望の第一歩です。

 アップルコンピューターを創設したスティーブ・ジョブズも言っています。「死こそが、再生するための最古回の方法だ」と。ヨーロッパの教会ほどではないにしても、日本の教会も行き詰って久しくなります。日本の教会はまだ壊滅的な打撃を体験していませんが、教会の若者離れは激しく、今や教会の大半は「爺さん、婆さん」です。この状態は教会に未来がないことを意味しています。あと十年、二十年もすれば、閉鎖される教会が続出するのではないでしょうか。

 「いったん死んで、新たに出発する。」そう考えれば、ある意味気持ちは楽です。今の世界の教会はそのような歩みをしているようにも思えます。しかし、その中に生きている私たちはどのように生きればいいのでしょうか。これは大きなチャレンジポイントです。いったん死ぬのだから、努力はいらないのでしょうか。生き残る努カはいらないかもしれません。でも、キリスト者としての努力、主から呼ばれたものとしての日々の歩みがいらないわけではないでしょう。どのような状況に間かれていても、その中で主を信じるものとして、誠実さと忠実をもって生きることは大切です。

 主は「刈り人れは多いが、働く人は少ない」とおっしゃいましたが、わたしたちは「刈り人れは少ない」と感じています。しかし主は「刈り入れは多い」と感じておられたのです。時代が違い、状況が違うからでしょうか。私たちが二千年前にさかのぽり、ペトロやヨハネたちと一緒になって、主とともに歩んでいるとすれば、わたしたちも主とともに「刈り人れは多い」と感じるのでしょうか。あるいは逆に、もし今主が私たちとともに歩んでおられるなら、主もわたしたちと同じように「刈り人れは少ない」と感じられるのでしょうか。

 「刈り人れは多い」というみことばは、マタイ福音書とルカ福音書に書き残されています。マタイ福音書では、イエスが牧者のいない羊のように群衆が疲れ果て、倒れているのをご覧になって、憐れに思われ、「刈り人れは多い」とおっしやっています。「刈り人れは多い」は豊かに実った小麦畑を前にしてではなく、「疲れ果て、倒れている群衆」を前にして、ィエスの心からほとばしり出てきた言葉として記されています。同じ光景を見ていたペトロやヨハネたちが、主と同じように感じたかははなはだ疑問です。私たちがペトロ達とともに、主のおそばにいたとして、わたしたちもィエスのように感じることができたかも疑間です。

 いま私たちが生きている世界にイエスが来られたとして、イエスは同じように「牧者のいない多くの羊が疲れ果て、倒れている」と感じられるのかもしれません。わたしたちはそのように感じていませんから、平気でいつものように生きていけるのですが、ィエスはたまらなくなって、「刈り人れは多いが、働き手が少ない。刈り人れのために働<人を送ってくださるよう、刈り人れの主に祈り求めなさい」とおっしゃられるかもしれません。ここに、主と同じ目を持ち、主と同じ思いを持つことの大切さと大変さがあるなと感じます。

 ルカの福音書では、この言葉の後に、「行きなさい。今、わたしがあなた方を遣わすのは、小羊を狼の中に送り込むようなものである」と続きます。「刈り人れは多い」と言っておきながら、それは「濡れ手に粟」ではなく、「狼に小羊」という、大変に困難な、不可能に近い状況を前にしての言棄として記されているのです。もしかしたら、私たちが主とともにご一緒していたとして、主がご覧になっておられる状況を私たちも見るとして、とてもではないが、わたしたちには「刈り入れは多い」とは思えないかもしれません。しかし主は「刈り入れは多い」とおっしゃられるのかもしれません。こうしてみると、主がお感じになっておられるように私たちも感じることの大切さ、主が選択されたように私たちも選択し、主が歩まれたように私たちも歩むことの大切さと難しさを感じます。

 主が「刈り人れは多い」とおっしゃったのは、「疲れ果て、倒れている多くの人」をご覧になってのことです。私たちが生きている今日の世界はどんな状況でしょうか。主の御目に現代世界はどのように映っているのでしょうか。

 宗教アレルギーを起こし、人々が宗教を警戒し、若者の教会離れが加速する今日、もしかしたら、だからこそ主は「刈り人れは多い」とおっしゃられるかもしれません。それでも、私たち自身の目で「刈り人れは多い」と確信することがなければ、聖パウロのような熱心な働き人となることはできないでしょう。聖パウロのように、キリストの目を持ち、キリストの耳を持ち、キリストの心を持つことの大切さと、難しさを改めて痛感します。

 聖パウロ倣って考えてみましょう。「どうすればが喜んでくださるのだろうか」。


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