イエス・キリストのうちに一つに:一般信徒の視座から
宗教法人で長く責任ある立場にある一般信徒(私は25年前から経験しています)は、しばしば奉献生活者と混同されることがよくあります。つまり、少なくとも外から見ると、私たちの宣教活動を遂行する「一般信徒の在り方」は、自分の所属する修道会のカリスマに生涯を捧げる事を選択をした人たちの在り方とあまり変わらないということです。使徒職の現場における私たち一般信徒の存在は、今日では自明なものとして受け入れられています。
同時に、信徒に使命を委ねる決断をした修道会やその会員は、どうして修道会会員ではなく、一般信徒に重責を委ねる決断をしたのかについて、内外の関係者に正しく説明しなければなりません。時には、実際よりも多くの責任を与えていないという印象を与えるために、地位を「偽装」しなければならないことさえあります。その理由は、単純で、そしてわかりきったことですが、修道会はしばしば、信徒の献身や、信徒のカリスマについてや、一般信徒が修道会の創設の目的に全面的に献身し、そして遂行していく資質・能力を疑うことが多いからです。実際のところ、私たち信徒はいずれ去っていく存在、あるいは単に経済的な利益のために存在していると思われているのです。また、「よそ者」と思われる人に責任を委ねる事は、自分の組織とその安全性に対する裏切りのようにも捉えられるのです。ほとんどの場合はそんなことはありません。しかしながら、「否」とも言い切れない現実がそこにあります。
聖パウロ修道会のような宗教団体で働く私たち信徒は、奉献生活者たちと同じ問題意識、同じ不安、同じ緊張、そして同じ願望の下にあることを承知しています。私たちは皆同じです。そして、私たちの使徒職における献身も同様です。なぜなら、神から私たちに課せられている人間的条件は同じだからです。哲学者のジグムント・バウマンが予言していたように、私たちは皆、生涯続く利害関係の脆さと人間関係の不安定さが支配する社会と、時代の厳しい圧力に晒され続けます。そのため、信徒や奉献生活者の別なく落伍していく者も少なくなく、これが明白にフラストレーションと失望の原因となっています。また、私たち一般信徒の場合、使徒職のみならず自分自身の家族の変化と共存し、献身し、忠義を果たしていかなければなりません。
私たち信徒の多くも、荒れ狂う嵐の中を同じ一つの舟のうちに航(わた)り続けています。ナザレのイエスの父なる神へと向かう同じ信仰、そしてキリストは今この瞬間も生きていて、愛は死を克服するのだという福音の光明を今日のすべての人にもたらしたいという同じ願いを持っているからです。
しかし、これらのことを打ち明ける一方で、本音を吐露することが許されるならば、私たちはしばしば、非常に厳しい試みを課せられていると感じています。私たちは、修道会のカリスマとその宣教使命に対する私たちの献身の質と忠実さについて、常に評価に晒されています。私たちは、まるで自分が単なる通りすがりの訪問者に成り下がったかのように感じられ、こうしてもっと自分の事を良くわかってもらおうとか、尊厳を以て扱われる事に対する意欲を削がれてしまうのです。このようなことが起こるのは、先に述べたように、主の教会がそうであるように、私たち一般信徒の存在は修道会が織りなす神秘体の付加的、乃至、不可欠な要素であるはずなのに、逆に異質で未知の要素とみなされるからなのです。ここから生じる良くない諸影響を、私たちは避ける術がありません。私は、その文字が示すとおりカトリック的であればと、強く願っています。
どうすればこの状況が変わるのでしょうか? 何をすべきなのでしょうか?私たちは皆、等しい存在であり、神から生まれた者であり、私たちに託された同じ仕事を一緒に取り組む同胞(はらから)です。
上下関係を築かず、社員を上から見下ろすこともない、この水平な視点からのみ、私たちは正しいコンタクトをとることができ、お互いをよく知り、人間として、そして専門家として互いに尊重し、それぞれの才能や共通の仕事でできるさまざまな貢献を尊重し、価値を見出していくことができるのではないでしょうか。
これらの原則を取り入れる事によって、私たちはカリスマの多様性の中で真の信頼に基づく対等な関係を築き、アルベリオーネ師がその時代に同胞に求めたように、「現代の手段で現代の男性と女性にみ言葉を伝える」ことに貢献することができるようになるのです。そうでなければ、私たちは歴史的な機会を逃し、使徒職の実りを逸し、また福音のメッセージを汲み上げることができなくなってしまうでしょう。
実際、「もはやユダヤ人もギリシャ人もいない、奴隷も自由人もいない、男も女もいない」ように、私たちは宣教活動を遂行する上で、もはや信徒と奉献生活者を区別することすらできず、真に「キリスト・イエスにあって一つ」となるべきなのです(ガラ3:28-29)。
- アンヘレス・ロペス・ロメロ神父(聖パウロ修道会)による修道会総会に向けての思い。
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