「聖トマの祈」 キリストの聖体(マルコ14・12~16、22~26)
日本語の響きは面白いもので、「せいたい」と検索したら「生体肝移植」の「生体」、「生態系」の「生態」、「整体」、「成体」、「声帯」、「聖体」と出てきます。これらの中でも最初から「聖体」をイメージするのは、信者さんくらいかもしれません。それだけに「聖体」というのは、まだまだ日本の中で定着しているとは言えません。
言葉の響きとともに、「聖体」を説明するのは、もっと難しいでしょう。昔の「公教要理」の中には「聖体とは、救いのいけにえであるイエズス・キリストの御体と御血とが、パンとぶどう酒の形態のもとに神にささげられて、信者の永遠の生命の糧となる秘跡です」と記されています。特に「形態のもとに」という言葉を説明するのは、至難の業です。
また「教会憲章」の47番には、「われわれの救い主は、渡されたその夜、最後の晩さんにおいて、自分のからだと血による聖体の犠牲を制定した。それは、十字架の犠牲を主の再臨まで世々に永続させ、しかも、愛する花嫁である教会に、自分の死と復活の記念を託するためであった。それは、いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずなであり、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、未来の栄光の保証がわれわれに与えられる復活の祝宴である」と記され、信者でない方には決して平易ではありません。
昔の祈祷書ですが、「聖体に対する聖トマの祈」(アドロテ)には、次のような祈りがあります。「パンの形色のうちにまことにまします隠れ給う天主、今うやうやしく御前に礼拝した奉る。われは主を認むる力足らざるにより、わが心を全く主に従わせ奉る。ここに今、見、触れ、味わうところのみにては、これは主なることを認め難けれども、ただ耳に聞けるところによりて確信するなり。われは天主の御子ののたまいしことを、ことごとく信じ奉る。この真理の言葉にまさることは、世にあることなし。」(『カトリックの祈り』231頁参照)文語体の祈りですが、意外とこの謙虚な祈りが、聖体のことを理解するのに分かりやすいかもしれません。
「これはわたしの体」「これはわたしの血」と司祭の手を通してささげられるミサ。信仰と謙虚な心で、聖体をいただき、キリストと一つになりたいものです。
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