ひとつのチームとして働くために「あなたがた自身を変えて頂きなさい」ワルテル・ロビーナ神父
「先へ進む」。アルベリオーネはこの聖パウロの言葉(フィリピ 3:13)を大切にしました。彼は預言的な推力、そして神が彼に託した使命を切に感じていました:「主のために、そしてまた、自分が生活をともにするはずの新世紀の人びとのために、何事かを果たす」(AD、15)。彼は「キリスト者のように記す」ことに満足していません。なぜなら、「こんなことは洗礼を受けた人間なら誰でもできる」からです。アルベリオーネ神父は、自分自身に対して、そしてすべてのパウロ的使徒に対して、それ以上を求めます:「しかし、使徒はさらに先へと進まなければなりません。使徒には使徒固有の使命があります。すなわち聖書をお著しなった方の働きを、この時間と空間の内で推し進めることです」(AE、159)。
この大変な使命の故に、「新世紀の寛大な人たちは、きっと自分が今感じているようなことを感じるのではないかと思われるのだった。そして、組織を編成した…」(AD、17)。 彼は自身の受けた霊の働きによって集められる人々の組織が必要であると強く感じました。
この組織から全ては始まります。「使徒たちの新しい群の必要性ということが、知性と心に根をおろし、やがてそれらのことが、いつもその思い、祈り、内的働き、望みを支配するようになった。教会と新世紀の人びとに奉仕し、他の人びととともに働かねばならないと痛切に感じた」(AD、20)。彼の最初のアイデアは、カトリック信者の著述家、技術者、書店、セールスマンからなるカトリック組織を考えていました。つまり、(そういうものを作って)指針、仕事、使徒的精神を与えること...。1910年に向けて、彼は決定的な一歩を踏み出しました。作家、技術者、普及者は、男女の修道者でなければならないと思い至りました…[彼は]組織、修道者による組織を編成します。ここでは、力は一つに集結され、献身は全面的となり、教義はいっそう純粋となるでしょう(AD、23.24)。「今日において、とりわけ重要なのは組織です」(UPS、I、382)。「代々受け継がれてきた精神と、現代の形態を備えた大規模で強力な組織活動、つまり、出版使徒職は、個々のイニシアチブではなく、訓練を受けた軍隊が持つ普(あまね)き性質を持つイニシアチブによって果たされてきました…出版使徒職を遂行する修道者の軍勢」(AE、53-54)。
しかしながら、どのようにしてこのような組織を築けばよいのでしょう?アルベリオーネには2つのモデルがありました。世俗的な領域ではフォードモデルがありました。これはあからさまに階層的で、管理的、そして垂直的です。そして聖職位階も同じように階層的で垂直なものです。したがって、彼が立ち上げた組織はこの傾向を免(まぬか)れ得ませんでしたが、そこには神学的な理由が無いわけではありません。その構造は、キリストを頂点とし、そこから種々の人々に下るという意味において階層的なのです。組織の上部には、福音を宣べ伝えるために召された司祭たちが位置します。アルベリオーネは、司祭の新しいモデルである作家司祭や良い報道の使徒を提唱します。司祭は、説教するように召されているのと同じように、執筆するようにも召されているのです。口頭での説教と印刷された説教とでは、方法と様式だけが異なるだけで、内容も、そこに課せられる義務も等しく、そして説教はまた司祭にだけ留保されているものです。したがって、司祭が執筆するところにも、教会小教区とその信徒たちは現実として存在するのです。他方、コミュニケーションのツールを使った説教は口頭での説教よりもはるかに多くの協力を必要とするので、ここに修道士たちが登場します。そして、司祭の説教を推し進める役割を果たし、こうして忠実が成し遂げられるのです。
フォードモデルでは徐々に否定的な面も浮き彫りになりますが、アルベリオーネは、この階層的秩序を肯定的、かつより広い包括的な視野をもって捉えています。というのも、この諸階層においては、皆が福音化という同じ任務に応え、そして参与しているからです。実際、同じ霊の働きと同じ宣教方針に従うことで、修道者たちの間に強い結束力が生まれます。なぜなら、各修道者は自分の可能性と受けた促しに従って、出版の使徒職にそれぞれ貢献するからです。それは、同じ霊の働きと宣教方針に従うと言う、真のチームワークなのです。
アルベリオーネの使徒的な夢が現実のものとなってから、一世紀が過ぎました。特にコミュニケーションモデルと組織構造に関しては、多くが変化しました。
「誰であれ歩みを止めたり、遅くする者は時代に遅れをとっています」と神父は述べています。(CISP、1949年5月)。翌年、彼はこんなカードの言葉を取り上げました。エリア・ダッラ・コスタ枢機卿の言葉です:「われわれが自分たちをとりまく小さな世界の彼方の現実を勇敢に眺めるなら、メンタリティーと方法を根本的に、一刻も早く変革する必要があることを悟るのである。あるいは、数年の間にわれわれは、生命の師のまわりを不毛なものにしてしまったのである。そしてまさに、生命なるキリストは、われわれを、死んだ無用な邪魔なぶどうの木の枝のように切りすかしてしまわれるだろう」(CISP、1950年11月)。
今日の世界は、とりわけ、デジタル・ネットワーク通信の文化と考え方に私たちを沈めることによって、その技術開発を続けてきたことについては論を俟(ま)ちません。これまで以上に急速な今日の変化の途上においては、私たちパウロ会士はアルベリオーネ神父と同じ使徒的勇気を持つ事が要求されます。
最初の革命はコミュニケーションにおいて起こりました。かつては情報が中心にありました。そこから多くのユーザーに向かって一方向に情報が拡散していきましたが、現在では多くの機能・役割を担う個人が中心にあり、この諸個人がクロスメディアやトランスメディアを経由して情報を自由に取捨選択するようになりました。
ですから、福音を説教する者とその対象となる人々との関係は様変わりします。在りし日には、説教者が絶対的な基準点であり、その言葉は喜んで受け入れなければなりませんでした。今日、この説教者は、自分自身がメッセージを提供する数多くの人々の一人に過ぎないことに気がつきました。自分の人生と生活にとって最も適当で有益と思われる情報を取捨選択するのは、説教者ではなくユーザーなのです。この事は、使徒たる者は、自身のメッセージが選ばれ、共有され、そして共感を生むことができるように、聴衆を鼓舞することができなければならないことを意味します。現代のマーケティングの用語を用いるならば、旧来の預言者や使徒という言葉に代わって、福音宣教者、そしてインフルエンサーになり、神との契約を人々に証し、これに招くことができるようにならなければなりません。
また、オムニチャネル、クロスメディア、トランスメディアなどの通信の在り方も変化していきます。これらは新しい思考の様式を示すものであり、またコミュニケーションの様式でもあります。すなわち、新しい現実世界に対して効果的である組織構造を決定するためのコミュニケーション・システムです。私たちは未来の事ついて語っているのではなく、現実世界について、そしてそこでは何が喫緊(きっきん)の課題であるのかについて語っているのです。これら新しい形のコミュニケーションの目指すところは、体験を生み出し、熱狂させ、そして強い関係を築くことです。
何よりも重要なのは、「一緒に」語ることのできる素晴らしい物語です。そして、救いの物語はこの点でユニークです。
2番目の革命は、組織それ自体についての概念です。時間の経過とともに、組織機能とその効率性が最適化されたピラミッド階層型官僚組織概念から、横断的で組織内の隔たりを乗り越えるマトリックス型組織、より多くの人が参与することが可能な水平的な組織概念へと移行しました:その目的は、誰もが組織の一員であると感じること。したがって帰属意識、自分が何者であるかという感覚、およびモチベーションを付与することです。またコミュニティ機能を最適化し、達成すべく、ネットワーク型組織へとも移行しました。その要点は、イノベーション、組織内の隔たりの克服、組織の柔軟性と可変性にあります。これらの組織構造に霊の働きが加味されます。この組織は「なぜ」物事が行われるのか、そこに由来します。この「理由」は、自分自身を構築する方法、行動する方式、および成し遂げられる諸事に意味を付与するものです。形こそ新しいものですが、これはそもそもアルベリオーネ神父の考えに帰するものであり、出版の使命の独自性と使徒職に、あらゆる人(パウロ会士と一般の人々)を巻き込むものです。
宣教活動にありがちだったピラミッド型構造も変化しました。使徒的勧告「福音の喜び」は、この点を明確にします。「福音を伝えるのは神の民全体である…洗礼を受けた一人ひとりが福音宣教者なのです。だから、資格のある者だけがそれを進め、残りの信者はこれを受け取るだけだと考える福音宣教の図式は適当ではありません」(「福音の喜び」、111、120)。
リーダーシップのモデルも変化します。今日のリーダーは、使命を遂行する上で刺激を与え、推進させ、そして周りを巻き込んでいく存在です。彼はもはや単に命令を与え、そして服従を要求する存在ではなく、イノベーションを世に提供するために、個々の能力を最大限に活用する方法を知っている者なのです。
加えて、リーダーシップはもはや上から下といった縦の関係で捉える事はできず、あらゆる方向に拡散されるものと考えられるようになっています。リーダーシップは、すべてのメンバーによる共同責任によって特徴付けられ、貢献の質の上に立脚しており、ここでは批判的、創造的、戦略的思考が重要となります。霊性の修養は、歴史の要求に応えることでより豊かになっていきます。
では、今日パウロ会士はどうあるべきなのでしょうか。アルベリオーネは次のように強調しました。「私たちの使徒職には科学が必要です。最初に一般的な科学、次にメディアの科学...しかし、何よりも、聖人たちの群れがこれらのメディアを使用する事を主は求めておられます」(CISP、1968年3月 )。 このようなパウロ会士を、今日では、パウロ会士5.0と呼びます。彼らは、先を征(ゆ)く方法を知っていて、自身の職人工具として、福音とあらゆる種類のスキルを持っているパウロ会士です。
したがって、聖パウロの使命、ビジョン、価値観を取り戻す必要があります。クロスメディアおよびトランスメディアの様式で、使命と一致するコンテンツについて考えること。新しいコミュニケーションの現実と宣教の使徒職にふさわしい組織を持つこと。何よりも、皆でリーダーシップ共有し、すべてのパウロ会士を巻き込み、解決策を見つけるために集まり、コミュニケーションとコンテンツの方法と様式を探り当てる必要があります。
チームとして働くことは非常に大きな強みです。今日の表現方法に適切に対応できる唯一のものですし、チームワークは依然として成功の秘訣の1つです。 私たち共に歩み、宣教する使徒たちの群れとして「チームワーク」を果たすよう召されています。常に「聖パウロのグループ」という視点を持って考えること。使徒職は聖パウロのそれでなければなりません。イベント、役割、製品、個性等は、自分自身に縛られるのではなく、聖パウロ修道会に縛られるべきです。共有することで、作業の質が向上しますし、グループ自体にも益し、その結果、生産性も向上します。それは、信頼を築き、モチベーションを高め、情報と知識の交換を促進し、共通の霊の働きに基づきながら帰属意識を刺激し、そして誰もが自分の使徒職の仕事に誇りを持っていることを保証するものです。
メディアを通じた宣教活動に焦点を当てた宗教組織の必要性は依然として強いものです。この分野では、中途半端なままであったり、辛うじて生き残ろうとするようなことはできません。ここでは、「新生児」であってはなりません。すっかり大人として物事に取り掛からなければなりません。これには、団結すること、良い意味で緊張する方法を知ること、チームの精神、そして福音のパウロ的コミュニケーターとしての表情を示す能力が必要です。私たちは使徒と呼ばれています。「使徒は神を心に抱き、神を撒き散らす人です」(CISP、1950年12月)。私たちは、コミュニケーションの世界では専門家であるだけでなく、コミュニケーションの世界でキリストを生き、宣言する、奉献された人々である「パウロ的専門家集団」となるためにここにいるのです。私たちは模範的な生き方に召され、証し人となるように、そして宣教者となるように、更に世に影響力のある人となるように召されています。存在感、可視性、信頼性という3つの要件において、私たちの日々の歩みは多くの人々の注視を得ているのです。
現在の状況がどうであれ、始まりには大きな夢や人々にとって重要な何かがあったことを覚えておく事は有益です。その方向、すなわち最初のビジョンに立ち戻って考えなければなりません。そして、その事を決して忘れてはなりません。
パウロ的使命の真性に立ち返る事は、私たちを福音の独自性と素晴らしさへ引き戻すでしょうし、私たちの生産活動は、ここに由来しなければなりません。それは私たちのあるべき姿へと立ち返らせ、私たちが作る製品と、宣教者としての私たちの固有の使命との間の矛盾を取り除くはずです。
私たちは、キリストを公然と宣言し、わたしたちの信仰が他宗教のそれと一体何が違うのかを明瞭に示し、この現代世界において神のしるしをより勇気を持って追い求めるように召されています。私たちは、「修道者」の業を実現するよう求められています。どこの宗教にもあてはまるようなコンテンツや、内実これといって中身の無いような宗教的な制作物を作ることに限定しないようにしましょう。私たちの業は、歴史の中に受肉された神を宣べ伝える宗教製品を世に産み出す事です。それは、使徒ヨハネ(20:31)によれば、耳を傾ける者がキリストである神の子イエスを信じ、永遠の命を得るためです。
宣教活動とそのビジョンに関与する事は、聖パウロ修道会に従事する人々にコミュニケーションの情熱とチームとしての団結感を与えるでしょうし、広く大衆にも刺激を与えることになるでしょう。
来るべき新しいものを、それが要求するものとともに積極的に受け入れること、今日の人々の訴えに応えること、神の言葉を灯明とすること、これらはパウロ的生き方を特徴づける諸要素です。だからこそ、宣教の任務を通じて、また、キリストが与えてくださる保証によって、私たちの固有性は強まるのです。
- ワルテル・ロビーナ神父(聖パウロ修道会)による第11回修道会総会に向けての思い。
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