ともかく感謝 山内重夫修道士
半農半漁を営む小さな町に生まれ、兄が4人、姉が1人の6人兄弟姉妹の末っ子。両親ともカトリック信者で、毎朝毎晩、両親の声に合わせて祈っていました。
小学校を卒業して、長崎の公教小神学校へ2年間行ったけれど、途中でやめて帰ってきました。(長崎にいた時、被爆しました。)その後、西肥バスに8か月くらい勤務し、一年くらいさしもの大工の仕事をしました。生かじりだったけれど、これは後で結構ためになりました。しっかりした仕事がなく、フラフラしている時、パウロ山野さんが、ものすごく立派な車で私の教会にやってきました。確かフォード車だったと思います。それが若い私にはとても魅力的でした。お告げのマリア会のシスターになっていた姉が、そのパウロ山野修道士さんを紹介してくれたのが一つのきっかけです。また19歳の時、西木場教会で行われた年の黙想の時です。教会の祭壇の上に保護の聖人のフランシスコ・ザビエル像がありますが、その像が「行ってすべての人に福音を宣べ伝えなさい」と語りかけているようにも思えました。これも入会のきっかけです。
福岡修道院の第一期生で、中村末男修道士さん、牧山忠治修道士さんと同期です。入会の時には父が一緒についてきました。その当時、大名町教会が修道院の事務所みたいになっていて、寝泊りできる程の掘っ立て小屋みたいなものがありました。そこでベルテロ神父さんに会い、入会を決意しました。ベルテロ神父さんから「あなたはロザリオを持っているか」と聞かれました。あいにくロザリオを持っていなかったのですが、父が幸いロザリオを持っていて「これやるから」ということで助かりました。その時はちょっとハッとしましたね。
福岡の小笹では大きな水桶を作ってもらって、毎日水汲みをしました。近くに家があり、そこから水をもらって汲んでくる。20歳の若さだったけれど、けっこう鍛えられました。福岡に一年くらいいて着衣。さらに一年して修練。三人いっしょに入りました。修練の時には7、8人いたかなあ。修練長はボアノ神父さんだった。厳しかったね。毎日、ミサ中に説教をするし、歌の練習もある。また使徒職は文選、植字、組版。それから本の発送、店、営業関係でも、新聞、雑誌の広告作成の仕事をしました。
振り返って思うことは、これまでお世話になった人たちに感謝したいですね。兄弟姉妹、共同体の仲間たち、親戚などに感謝したい。ともかく感謝ですね。(談)
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