「ツルさん、あの時は本当に悔しかったなあ!」 山内堅治神父
鶴田正広修道士(通称:ツルさん)が亡くなったのは、平成最後の日の二〇一九年四月三十日のことだった。翌日は「令和」の元号が始まるだけに、ツルさんにとってはさぞ悔しかったのではないだろうか。
ツルさんは私の一つ上の先輩で、私が福岡修道院に入会した時からの付き合いだった。けっこう負けず嫌いで、それでいて誰か分からない人がいると、すぐ手助けしてくれた。ただ説明がけっこう長くて、かえって分からなくなる時もたびたびあった。困っている人がいれば、手助けしたいと思うところがツルさんの性分だろう。
人生の中で、誰にでも悔しい思いの時というのはあるものだ。ツルさんにとって、いつが一番悔しかっただろうかと想像してみた。
私が福岡サン・スルピス大神学院(現在のカトリック神学院福岡キャンパス)に入学したのは、一九七四年四月のことだった。一学年上にはツルさん、最終学年(神学科四年)には前田万葉神学生(現在の枢機卿):写真最前列一番左、浜口末男神学生(現在の大分教区の司教):前二列左五番目、四年上(神学科一年)には中野裕明神学生(現在の鹿児島教区の司教):最後列右三番目などがいて、けっこう和気あいあいとした雰囲気だった。その当時、神学生は三十六名だったが、毎年、ラテン科・哲学科・神学科別対抗の野球とサッカーの試合があった。また時には縦割りで三チームにしての試合。さらには夕食後、日が暮れるまでソフトボールに興じ、神学院はスポーツのためには恵まれた環境だった。
神学院は一般の大学とは違うので、大学卒業の資格を取るため、通信教育で慶應義塾大学での勉強をした。毎年夏になると、スクーリングのために大久保(新宿区)のトマス学生寮に六週間ほどお世話になった。大学の勉強は大変だったが、息抜きに多摩川のグランドでソフトをしたりした。八月中旬になると慶友会による都道府県対抗の試合があり、神学生たちは福岡慶友会に入って試合に出場。そのころ、ほとんどの神学生が二十代前後の学生なので、他の慶友会に比べて若く、一九七五年の夏には、福岡慶友会が全国優勝を果たした。
その翌年の夏のことだった。ツルさんは四年生で、大学生としては最終学年。ツルさんはセンターのポジションで出場し、私は応援席だった。ピッチャーは古巣神学生(現在の長崎教区の司祭)。ほぼ完ぺきな試合運びで、一点差で勝っていて、二年連続優勝も間近という時だった。九回裏で、エラーなどが重なり、二アウト、二塁、三塁という場面。あと一人という時、バッターが打ったボールは(ツルさんが守る)センターのほうへふわっと上がって、神学生の誰もが「これで勝ったなあ」と思ったら、ツルさんがそのフライをポロリと落してしまった。あれよあれよという間に、二人が生還し、逆転負けとなった。唖然とする人、気が抜けたようになる人、さまざまだった。なんでもないフライには思えたけれど、緊張感が漂っていたのかなあ…。ツルさんは「ゴメン、ゴメン」とは言っているけど、負けは負け。試合に負けて、泣いている人、ツルさんを責める人は誰もいなかった。でもツルさんにしてみれば、この時ほど、辛くて、悔しかった時はなかっただろう。
試合が終わった後、福岡慶友会と神学生たち、合わせて四十名くらいで居酒屋へ行き、準優勝ということで、労をねぎらった。みんな若いこともあり、ガブ飲み状態。暑さも重なり、ビールと日本酒をちゃんぽんにしたこともあって、みんな酔っぱらってしまった。それこそヤケ酒というものかなあ?
トマス学生寮に戻ったら、担当の神父さんにこっぴどく怒られ、おかげでみんな一週間外出禁止となった。
こうした出来事は、ツルさんにとっては決して忘れられないし、本当に悔しくて、辛い時だったかもしれない。でも仲間の神学生たちが無言のうちにもかばい合い、支え合ったのは確かだ。そういう悔しかった時期は、ツルさんにとって他の仲間との友情の架け橋になったのかもしれない。
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