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「『シノドス的なあり方』を目指して」 澤田豊成神父

 近年、教皇フランシスコはひんぱんに「シノドス的なあり方」という表現を使い、これこそ教会が目指すべき姿であると言います。「シノドス」というと、わたしたちはまず「世界代表司教会議」のことを思い浮かべるかもしれませんが、もともと「シノドス」という言葉は、ギリシア語で「ともに歩む道」という意味を持っています。「シノドス的なあり方」というのは、一人の人、あるいは一部の人が考え、決定し、歩んでいくーーたとえ、それが正しい歩みであったとしてもーーのではなく、すべての人を巻き込みながら、ともに考え、耳を傾け合い、識別し合い、歩んでいくというあり方です(もちろん、最終的な責任は牧者、長上たちにありますが)。教皇は、この「シノドス的なあり方」がキリストの教会の神秘の根本に由来すると言います。教会は、単に「方法論」として「シノドス的なあり方」を採用するのではありません。教会は、その神秘そのものからして、すべての面で「シノドス的」であるはずなのです。

 わたしたちの修道会もこの教皇の呼びかけを受け止め、わたしたち自身がシノドス的なあり方を身につけようと歩み出しています。しかし、その歩みは容易ではありません。「シノドス的」歩みは時間がかかります。一人ひとりの考え方には違いがあります。だから、巻き込めば巻き込むだけ、まとまらなくなることがあります。自分にとって意味を見いだせないことを言う入の意見に耳を傾け、それを取り入れることにばからしさを感じることもあります。わたしたちは誰でも、自分の言うことを聞いてほしいのですが、他者の言うことに耳を傾けることにはそれほど熱心ではありません。特に、自分と反対の意見の人、自分を強く批判する人、強い言葉で意見を述べる人に耳を傾けるのは、信仰と忍耐が必要です。

 「シノドス的なあり方」が求められるのは、わたしたち教会共同体や修道会の共同体の中だけに言えることではありません。それは、わたしたちの果たす使命、福音宣教のあり方についても当てはまるのです。「福音宣教」というとき、教会は長い間、キリストから使徒たちをとおして伝えられ、継承されてきた「福音」を、まだこれを知らない人々に伝えていくことと理解していました。それは、聖パウロ修道会の使命についても同じで、社会的コミュニケーションの手段(出版、雑誌、映画、ラジオ、テレビなど)をとおして福音を一気に大量の人々に伝えていくことと考えられていました。しかし、福音宣教も「シノドス的」な方法でなされるとすれば、それは単に、送り手から受け手へ福音を一方向的に伝えることではなく、「受け手」を「対話の相手」ととらえ、互いに耳を傾け合い、対話をし、福音を分かち合っていくことになります。

 実際には、わたしたちの福音宣教はそうなっていません。まだ具体的な形が見えているわけでも、進むべき方向性が分かっているわけでもありません。だからこそ、まずわたしたち自身が「シノドス的なあり方」を身につけ、全会員を巻き込んで、対話のうちに模索していく必要があります。この「シノドス的」歩みは、より多くの人々、特に若者たちが加わることによって、より豊かなものとなっていくことでしょう。そのためにも、わたしたちは新しい召命を必要としているのです。


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